失恋
「こう見えてぼくは結構料理が得意なんだ。小学生の頃から母子家庭で、ああ父親は理由も言わずに逃げたらしいんだけど。引き止める母に、もう二度と帰らないって何度も言って出ていったみたい。まあそんなことがあって、小さい頃からキッチンに立つことが多いんだけど。まあ豪勢な料理なんて作れないけどね。お金のやり繰り優先だったから。でも手際は良いほうだと思うんだ。母の分もぼくが作ることも多かったし。堂さんは好きな料理はあるかな。作るほうでも食べたいほうでも」
少し楽しくなってきた。返ってこない質問をしたことより、恋をして生き生きとする自分に驚いていることに。自分のことを話したがる人の感情がわかる気がする。恋じゃなくても、自分を知って欲しいからだ。自分という存在を認めて欲しいからだ。だから少し見栄を張る。ぼくの場合は不幸自慢か。それでも心の浮遊感が得られた。浮ついた気持ちとは良く言ったものだ。これは嫌なことを忘れられることもあろう。この気持ちに中毒になる人もいるのはわかる。だからもう少しぼくは語りかけた。
「堂さんはやりたいことってあるかな。趣味でも仕事でもいいんだけど。ぼくは特にないから、ある人って羨ましいんだよね。仕事にやり甲斐がある人って本当にすごいと思うんだ。ぼくには淡々とこなしていくことしかないから。仕事なんて結局は死なないように生きるために必要なことでしかないって思ってしまうんだ」
少し愚痴っぽくなってしまったけれど、彼女は表情も変えずに聞いてくれた。ぼくの質問に答えることはなくても、それで
よかった。こんな風に人と話すことがなかったぼくには、とても鮮やかで華やいだ世界に思える。きっとみんな、自分の意思を共する人を探しているのかもしれない。だから知りたいし、知って欲しい。わかって欲しいのだろう。相手を知ることで一喜一憂する気持ちが、今のぼくにはわかる。
今彼女のことを知りたいと思う気持ちを、近い言葉で表現するならばなんなのだろう。そう、執着だ。よく言えば愛着。軽く言えば興味。なんだっていいのだ。とにかくぼくには彼女のことを知る術が限られている。それでも、少しでもいいから、わかることがあるなら。知りたいと思う。
周りを見渡す。そういえば冷蔵庫もあるのに稼働している音もしない。ぼくは立ち上がってそちらに向かう。冷蔵庫の近くまで来ても音はない。電源は、コンセントに繋がっている。ブレーカーを見に行こうと思ったけど、女性の部屋の脱衣所に入るのは失礼だろう。たぶん彼女はもう電気を止めているのではないだろうか。そう思うと合点がいくことがある。手紙をぼくの部屋に入れたことだ。
彼女はかなり前から自殺を考えていたのかもしれない。予めぼくの日常のルーティンを調べていた。少し嬉しい。日曜日にぼくは午前に部屋を出て、昼前に帰る。これに気付いた。だからぼくが帰る時間に、蘇生の間に合わない状態になるように自殺を図った。だから警察を呼ぶように伝えてきたのだ。救急車はもう遅いと自分が知っているから。少しショックなことに、ぼくが選ばれたのが単なる隣人だからじゃないかと思う。彼女のことを知っている人間に、時間指定でメールを送ることもできたであろう。けれどそれはしなかった。知り合いが自分の死体を見たならば、その人に深いショックを与えるかもしれない。けれど単なる隣人でしかないぼくならば、受ける衝撃も少ないだろう。そう考えたのではないか。
ああ、なんと聡明で優しい人なんだろう。ぼくに対する興味の薄さには寂しさを感じるけれど、それは仕方ない。会えば挨拶するだけの関係だったのだから。それでも彼女のことを少しでも理解できた気がする。
少し部屋を見渡し、パソコンのあるデスクに目を留める。やはりあった。遺書。丁寧に封筒に入れてある。手を伸ばしかけるが、手を止める。ぼくは彼女の恋人ではないのだ。彼女の許可なく彼女のものに触れるなんて失礼なことだ。あることがわかっただけで充分だ。まったく几帳面な彼女らしい。
ぼくは彼女の隣に戻る。
「所詮ぼくは堂さんにとって何でもない隣人なんだよね」
ぼくの初恋はここで終わりを迎えた。




