第19話 禁伝『捨身飼虎』
「右手がある……右手があるよう……」
わたしはぼろぼろと泣きながら、震える箸で玉子雑炊を貪っていた。
時刻は深夜というかもはや朝方、合宿最終日である。
どうやらわたしは丸3日間、あのダンジョンに閉じ込められていたらしい。
いやあ、いくらタネが割れてもね。
自分の拳がぶっ壊れるほど思いっきり殴るなんてなかなか出来ないのですよ。
何度も何度も挑戦し、痛みに苦しみ、時にのたうち、時にマジ泣きし、ようやくできたときには今日だったのである。
丸3日も、下の方は大丈夫だったのかって?
ふははは、変なことを聞くんじゃないよ。
とりあえず、目覚めたときには雨が降っていたので綺麗さっぱりだったとだけは言っておこう。大きい方はそもそも大丈夫だった。山に入る前に出し切っておいてよかったぜ。
現実に戻った瞬間、猛烈な渇きと空腹に襲われた。
顔を伝う雨粒を舐めながら這いずるようにして道場にたどり着くと、待ち構えていたじいちゃんが食事を用意してくれた。なんで起きていたのかと聞いたら「年寄りは朝が早いんじゃ」と目を逸らした。どうやら心配していてくれたらしい。
「禁伝『捨身飼虎』と言う」
三杯目の雑炊をかきこんだとき、じいちゃんがぽつりと言った。
「しゃしんしこ?」
「元ネタは仏教説話じゃな。お釈迦様がその前世で、わが子を喰らってしまいそうなほどに飢えた虎を哀れに思い、自分の身を捧げて助けてやったという話だが、当然、そんな真似は普通にはできん。それを精神力でもって無理やり肉体を凌駕する、要は捨て身の技ということじゃ」
自分自身をエサに差し出すなんて、某パン頭のヒーローみたいだな……と思ったが、じいちゃんが真剣な顔をしているので茶化すのはやめた。
「火神陰流が、江戸時代の初期に火神流から分かれた流派という話はしたな」
黙って頷く。
源流である火神流は戦国時代の流派で、それには刀術や槍術、用兵術などの学問まで含んだ総合武術だった。それを徒手空拳のみに特化したのが火神陰流だと聞かされている。武装を許されない百姓の護身術として発展したのだそうだ。
「そして、百姓の戦いと言えば一揆じゃ。時には武士を相手に勇を奮うこともある。完全武装の武士と、徒手空拳の百姓。普通に考えれば勝負は見えておる。そんなとき、相討ちを必然として編み出されたのがこの秘術じゃ」
どうせ一揆の首謀者は死刑じゃったしの、とじいちゃんは笑う。
相討ちを前提でも、覚悟でもない。「必然」と言った。
現実で使えば必ず相手と己を殺す技――つまりはそういうことだ。
「ダンジョン外で使うのは、命を賭しても何かを守りたい時だけじゃ。そういう技だと心得ておけ」
わたしは再び頷いた。
あんな技、現実で使ったら洒落にならない。
確実に墓穴が2つ必要になる。
ま、現代日本でそんなものを使うことなんてないだろうけど……なんて思うとフラグになるな。なるべく意識しないでおくことにしよう。
「ま、この平和な日本で使うことなぞないだろうがな」
ふぉふぉふぉと笑うじいちゃんを半目で睨む。
せっかく無効化したフラグを建て直さないでくれよ……。
* * *
「ありがとうございました!」
「世話になったな、じいさん」
「そんじゃ、いってくるねー」
「ふぉふぉふぉ、またいつでも遊びに来るといいぞ」
玄関先で見送るじいちゃんの顔は好々爺そのものだ。
初日はどうなることかと思ったが、キリ先輩も鬼嶋もいい顔をしている。
きっと身になる修行をつけてもらえたんだろう。
雨上がりのアスファルトを踏みながら何の気なしに尋ねる。
「先輩たちはどんな修行をしてたんですか?」
「色々やったよ。体幹系が多かったかなあ。バランスボールの上に立って素振りをしたり、ヨガのポーズを取ったり。パワーはすぐには身につかないからって、ベンチプレスとかスクワットの正しいフォームを一通りやったらあとはそこそこだった」
「古流武術って言うから、てっきり坐禅とか、滝に打たれたりとかやるのかと思ってたんだけどよ、そんなん全然ないから逆に驚いちまったぜ」
ガチガチの根性修行はわたしだけだったらしい。
まあ、あのじいちゃんがいきなり根性系に目覚めていたらそっちの方がびっくりするけど。根っからの合理主義者で、古武道に付きもののスピリチュアルな迷信が大嫌いなのだ。反面、効果的だと思えば他流の技や科学トレーニングの導入もためらわない。
「しっかし、妙にダンジョンに詳しいじいさんだったなあ」
「男の人で珍しいよね。普段のトレーニングメニューまで作ってくれたし」
キリ先輩がスマホを取り出す。
それにはじいちゃんから送られた当面のトレーニングメニューがびっしりと書き込まれていた。それには肉体的な鍛錬のみならず、ダンジョン内で行うことまで記されている。
「あとは焼き肉が美味かったな」
「やきとりもおいしかったよ。このへんのやきとりって豚肉なんだね。お土産に辛子味噌も買っちゃった」
んん? なんで急に食べ物の話?
「あー、寿司も美味かった。回らない寿司なんて初めて食ったぜ」
「海から遠いのにね。地元で食べるのよりおいしかったかも」
回らない寿司!? ひょ、ひょっとして「寿司の政」ってお店ですかい?
「そうそう、そんな店名だったと思うよ」
「食え食えってうるせえから大変だったぜ。ま、悪くねえがな」
寿司の政とは、駅の反対側にある個人経営のお寿司屋さんである。
誕生日のお祝いでだけ連れて行ってもらえる特別なお店なのだが、ど、どうして先輩たちはそんなところにカジュアルに行っているのか……。
「あン? いや、ふつーにじいさんが連れてってくれたけどな」
「食べるのも鍛錬のうちだって。たくさんご馳走になっちゃった。あーあ、ダイエットはできそうにないなあ」
キリ先輩が口では愚痴ってみせるが、そのほっそりしたお腹では何の説得力もない。
こ、こっちは3日間飲まず食わずだったというのに……。
恨むぞ、じいちゃん。次に帰省したときは思いっきり高いものをねだってやろうと、わたしは密かに誓うのだった。




