二章 32夢 相反
――この人を信用していいのか。
ユミは落ちたナイフを見ながら、そう考えた。けど、落とした。落としたからにはきっと、心がそう望んでいるからであろう。いや果たしてそうだろうか。そうなのだろうか。いいや、違う。そもそもあり得ない。
――信用なんてできない。
それがユミの本心だ。彼のカウントダウンに焦ったのも本心だ。だからと言って、まんまと乗せられたそれにわけではない。そう易々と答えを出したわけでもない。決して違う。
まずユミに逃げる選択はない。そもそも逃げられることが不可能。自分の体のことなど、彼女自身が一番よく分かっているからだ。さらには彼の身体能力を見せつけられた。
――身軽だ、この人は。
殺すなんて選択肢は持っての他だ。死ぬこともまた然り。そもそも死ねないことは重々承知済みで、色濃く残留する『リダイアル』が本当に腹立たしい限り。
ユミには成すべきことがある。それはアルメリアを助けること。そのためにもここで立ち止まってはいられない。上っ面でも何でもいい。利用できるのなら何でもしてやる。やってやる。口約束でも何でも、全部まとめて叶えて上げる。
「……いいわ! あなたのその口車、乗ってあげるっ!」
「――それでこそ、だな?」
「――それはお互い様、じゃないの?」
互いが互いに笑みを浮かべた。片方が手を差し伸べ、片方もまた差し出す。
互いが互いの名前すら名乗らない。そんな上っ面な信用と呼ぶ名の繋がりで、二人は手を取ったのだった
ふとユミは力が抜けて座り込んだ。
一先ず何とかなった。予想外の出会いを何とか潜り抜けて、ホッと一安心。ユミは自分が思っている以上に神経がすり減っていたことを知る。常に保っていた緊張の糸がここで切れたのだ。
今は少し休みたい。
「――で? 結局、嬢さんは俺に何して欲しいんだ? こんな俺に力を貸して欲しいんだ。そんじょそこらなやつに頼めるほど、生半可な仕事じゃないんだろ?」
彼の問いかけに、ユミは答える様子がない。疲労困憊の真っ只中。彼と繋がるその手を掴んでいるのがやっとで、今も息も整えるのに必死。
そんなユミに、「どうしたもんかな」と悩んで見せた彼は、彼女の体を近くの壁へと寄りかからせた。跪いて、「顔、見せてみろ」と彼女の傷の手を当て始める。
ずいぶん優しい人だとユミは思った。しかし彼女は単細胞。そう単純ではない。簡単になびきなどしない。
彼にとってユミは商品でしかないからだ。それだけは忘れては駄目だ。付け入る隙を与えては駄目だ。たが、既にそれを与えていることを、彼女は自覚するべきである。
次第に落ち着きを取り戻したユミは、「ありがとう」と一言。先程の問いに対しても考える余裕ができていた。
力を貸して欲しい。シンプルな答えはそれだ。
アルメリアを救うには、どうしても力は必要不可欠。ユミが信用できる、信頼できる二人を裏切ってしまった。彼女を救う観点に置いては、頼ることはできず、敵となっている。
そもそもユミにはそれ以前に、どうしようもない現実が立ちはだかっている。
まずアルメリアは今、どこにいるのか。何をしているのか。そしてどうすれば助けられるのか。手がかりが皆無。そもそも時すでに遅しの可能性だって未だに拭えていない。
これがユミの今のゼロな現状。土俵にすら立てていない。しかしそこへと降ってきたのが彼で、いわば救世主。されど悪者。
だからこそ、毒を飲んで毒を制するしか他ない。
「答えはまとまったのか?」
「……そりゃあ、うん。まあ……」
ユミは言葉が詰まっていた。
その詰まり自体は自然なことあり、彼にとっては、まだ悩んでいるのか? ぐらいの反応。しかしながらユミにとっては一大事。言葉の選択ミスは、いったい誰の基準か知れなくて、そ誰かの受け取り方次第で心臓が破裂する可能性があるためだ。
言葉を慎重に選ぶのは、許して欲しい。とそんな理由さえユミは言えないわけで、「結局はなんだよ」とレスポンスの鈍足さに、「ご、ごめん」と彼女は焦って謝ることしかできなかった。
「別に構いはしないが、急いでんじゃないのか? それに今はあんたが主導権、握っているんだ。力貸すのは本当だが、それにはあんたの意志が必要だ。俺はてんであんたのことは知らないからな。バドラ動かすには主人が必要のように、俺の行動する道を示してくれないと、動くに動けない。言ってる意味は流石に分かるよな?」
「あぁ……うん。じゃあ聞くけど――」
ユミはとりあえずアルメリアのことを聞こうと、考えを口に出したその時、「おお、なんだ?」と食い気味に言い寄られて、「ちょ!? ちょっと!」と彼が急接近。体を触れられて、突っ返し、急いで壁にづたいに彼との距離を取った。
「そんだけ動ければ、大丈夫そうだな」
「な、何が大丈夫よ! 変態! 触んな!」
「んだそりゃ。ただ肩触っただけだろ。変な言いがかりはよせよ」
「うるさい、うるさい!」
「おお、なんだ? 恩を仇で返す気か」
「いや、そうじゃなくて!」
ユミはそこからさらに、「違うからね!」と念を押す。
仇で返す気は更々ない。むしろその事に対してはありがとう。しかしながら、彼のするすると懐に入り込んでくるその危うさが怖いのだ。あの時もそうだったように、だからこそ変に関係を持ちたくない。
付け入る隙など与えない。常に上。こちらが上でいなければ、との気概を改めて持って、
「私が主導権なんだ。あなたはそう……ウサミミの子、探してきてよ!」
ユミは彼に答えを差し出して、命令した。そしてさらに、「あと水も持ってきて」とお使いも頼む。水分を体が欲している。吐いたことが今更ながらにじわじわと、遅効果の毒を味わわされる気分で、頭が痛い。
ユミの傷が治ったとはいえ、それは表面上のことである。今もなお体は思うように動いていない。
通常の五割ほどだろうか。こんな状態でアルメリアをどうにか、それどころか彼の相手さえままならない。現実、ユミが通常状態でも彼女や彼に食らいつけるのかも、甚だ疑問ではあること。対等ではないのは確かである。
「ウサミミって、あれか? 兎人族のことか?」
「うん……頭に兎の耳があって、大人しそうな小さな女の子。もしかしたら、この近くにいるかも……知れないから」
ユミは再び座り込んで、息を大きく吸う。彼は「無茶すんな」と近づこうとするが、ユミに腕を伸ばされて、彼女の領分手前でストップを余儀なくされた。すると力無く萎むように、彼女の腕が地へと落ちる。
「私のことはいいから、心配しないで行ってきて。あなたとの約束は守るから……絶対に守る、から。私、ここにいる……うんうん、本当は動きたくないっていうのが本音だし……ここから逃げない。逃げも隠れもしない。だから、あなたも私との約束守って、今すぐアルちゃんを探してきて、お願い」
ユミの精一杯。顔を起こして、彼を見上げながらに改めて懇願した。
「……あんたがそこまでしてそのアルって兎人族のために、いったい何をどうしたいんだ? それだけは聞かせてくれ」
「アルちゃんはいい子なの。私よりも小さいのに、ちゃんとしてて、仕事もしてて、真面目で――でも、言っていることが変わった子で、それでも私は守るって約束したの。約束したから、私はアルちゃんのために、ここまで来たんだ」
「……約束、ねぇ……分かった、探してきてやるよ。そういう約束だからな。ただ、探してきてやるが、あんまり期待すんなよ?」
僥倖の名の元に、運命は天のみぞ知るところ。と言ったところか、あえて自分のベースを低く設定するのことで、信用の上げ幅を勝ち得る選択。悪人が善行を積む。彼の言葉はそんなよくあるやつである。
しかしながらそんなことにユミは考えが回らない。彼女はただ笑顔を作って、「うん。してないよ」とシンプルにそう答えた。
混じり気のないユミだからこそ、信頼できるものがある。裏表が面に現れるユミだからこそ、していないはしている。彼女なりの、それこそよくある相反語である。
彼は次に髪を掻いて、「んだそりゃ」と呆れた物言い。期待とは裏腹な結果で、的を外したような表情。でも、彼のやる気は先程よりも表情に現れていた。
「――あんたの目がまだ死んでないのが、俺をやる気にさせるってもんだぜ、赤髪の嬢さん」
彼は颯爽と軽やかに駆けていった。
あの人ならきっと見つけてくれる。そんな彼へと目を配り、思い馳せる中、ユミは頬に謎の違和感を覚えた。頬を触って確かめる。
静電気のような刹那の痺れ。特に何もない、と気のせいか、と手のひら落とす。
――そこからユミの記憶はない。
「……さま」
「……ゆみ……」
「……ユミ様」
ただ、ユミは自分の名を呼ぶ声にハッとして、記憶を呼び覚ました。
目を見開き、今なお霞んで見える世界でも、その目は確かにウサギの耳の輪郭を捉えていた。
「駄目ですか、ユミ様!」
「どういうつもりだぁ、アル!」
アルメリアの相反語と悪者のドスの利いた声にユミは覚醒する。
今、ユミの目の前にアルメリアがいる。呼びかける彼女がいつにもまして表情豊かに見えて、あの時と同じ悪者と何故か相対している。
限りなくユミの知るあの時と酷似する状況下。されども相反する状況下に今ある。
たとえ記憶が紡がれていようと、この現実こそが現実である。もちろん、今までの『リダイアル』も夢などではない。それは決してそうではない。そこにもあった現実であるからだ。
そして今、世界は創られていく真っ只中にある。
絶望の相反。それは希望だ。
希望の現実と絶望の夢。相反する二つがミックスし、コネクトしようとも、共通して不変することのない一つがある。
それは感情。人にはそれがある。あるからこそ、誰かの手を掴んで、繋げて、紡ごうとするのだ。
怒っていても、悲しくても、楽しくても、苦しくても、
――『涙』は流れるものだから。
相反していてもなお、そこに命がある限りは――。




