一章 17夢 母からの約束事
「ん……。あ、れ……?」
ぼけーっとした表情を決定付ける、虚ろな双眸がゆっくりと姿を現した。
見慣れた天井。柔らかい布団。静寂の包む寝室。
夢美は帰ってきた。帰らされた。その事実が意味するもの――それは、
「……ゆめか」
夢美の双眸は、ゆっくりと闇の中へとまた消えていった。
暫し、現実逃避を決行中の夢美だが――、
「……って! そんな訳あるかいっ!!」
――瞬時、押し寄せた現実に向かい合う。
一人ノリ突っ込みを繰り出しながら、布団を捲り上げて起き上がった。
手の握力――それが無いのを確認。そして、その手を差し出すことがもう出来ないのだと思うと――、
「……っ、ぅぅ」
自然と零れた涙を、その手が拭き取ることはなかった。布団の上へと染み込み、握りしめた両手が布団にシワを作って、夢美の握力を戻していった。
ループ物であるが故の弊害。
それは、ユミが生きていた時間は、夢美の中にしかないということ。あの時の一挙手一投足――その全てが無に飲み込まれた。
――――死という無に。
時刻は、六時二十分。あの時と同じ時刻であった。
そして、『リダイアル』が決定的な一手として、夢美の中に打たれることとなった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夢美は『リダイアル』した。その事実を、夢美の頭の中が整理され、そうだと実感したのは、慟哭が収まりを見せてから、しばらくした後――『リダイアル』してから三十分後のことであった。
「……死んだってこと。分かんない」
疲れ果て、布団へと倒れ込んだ夢美。
死んだという実感が全くないのだ。衝撃による発生するであろう『痛み』。刺された時の鈍い『痛み』。その『痛み』がなく、魔女フィアに味わわされた恐怖すら――否。それはあった。
闇の中を翠玉が二つ。それと同時に、聞こえた羽音のような不気味な音。
スマホから発する大音量の音楽のせいで、正確ではないが、常闇を確かにそれは、
「――飛んでた」
そう表現できるほど、夢美の聴覚はそうであると判断を下した。
今となっては確かめようがない――確かめたくもない、その戦慄を覚えた翠玉を持つもの。それがユミを殺したことに間違いはない。
「化け物飼ってるってこと……流石は異世界。流石はファンタジー」
夢美は感心し、
「……あり得ない。ほんっとに」
そして、その言葉を口にした。
あり得ているから、こうなっている。あり得ないから、あり得ている現実。
「……どうしよう、これから」
今出来ることが何一つないこと。それが夢美に残された一つのあり得ない現状である。
まさか『自殺』するわけにもいかない。
「夢美~起きなさ~い」
夢美の母――『柊百合』のアラームに、夢美は「起きてるよー」と、謎の反論。
いつものやり取りのはずなのに、それはどこか不気味に感じた。
デジャブというやつではない。
そのやり取りを交わし、異世界に『リダイアル』して、数時間後にまた同じやり取り。
過ぎているはずの時間が巻き戻っているという、不思議な感覚であった。
夢美は寝巻きのまま、部屋を後にして階段を下る。
「おはよ~」
茶の間の扉を開けながら、夢美はいつものように気だるげなあいさつを発した。
――――あれ? 何か違うような。
変な違和感であった。どこか、ここには来たらダメだという、ユミからの忠告を受けた気がした。
茶の間こと――ダイニングキッチンは約十帖ほどの部屋。
白の壁紙で包まれ、キッチンに寄せられるようにイスとテーブルが置かれている。木目が窺える茶色の家具だ。
バランスのため、四脚のイスがテーブルに収納されている。
そして、百合の手作り料理がすでに置かれている。
このいたって普通の朝食場に、違和感を生み出しているというのなら、それは夢美であろう。
――――ガシャーン。
と、その音に咄嗟に反応し、夢美は音の出所に目が向く。
そこには、皿を落とした夢美の母――百合の姿があった。
あたふたし、夢美を見やるその表現は、どこか怯えていた。
「……あっ!! しまっ――」
「ゆ、ゆゆゆ、夢美!? ど、どうしたのよ、その髪」
た、を言う前に詰め寄られて肩を掴まれ――そして振られる。
「ねぇ、どうしたの? どうしたのか答えて、そういう子じゃないのに。何があったの? 夢美? 聞いてるの? ねぇ、夢美?」
「……ちょちょちょっと、ムリムリ。だ、だれか~」
冷静さを欠いた百合のラッシュ。止まることを知らない揺さぶりを伴って、それは、夢美の術を奪い去り、なすがまま振られ続けた。
――――百合が落ち着くその時まで。
完全に抜け落ちていた『赤髪』の存在を、夢美はしっかりと受け取らされた。そして、着いてきた指輪もまたしかり。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
落ち着きを取り戻した百合。歪みの世界を体験させられた夢美。
二人揃って部屋の床で座りこけた。
「染めるな――なんて言わないけどね、夢美」
改まった百合の態度と言葉に、夢美は歪みを伴いながらもその双眸は、しっかりと合わせた。
「――せめて、金にしなさい」
「……ん? あの……何を、言っているのでしょうか?」
染める自由を手に入れた――と、そんなことはどうでもよく、思わず敬語になって、百合の要望を冷静に聞き流す。
――――染めたくて染めたわけじゃない。
「あんた、赤って……それはお母さんどうかと思うけど。アニメの世界じゃないのよ?」
「……確かに、そうです。すみません」
本当のことは言えるわけもなく――最も信頼できる人物からの厳しい意見。それを受けて夢美は、猛省の意を示した行為に励んだ。
はっきり言えば土下座。何故したのかも分からず――する羽目になってしまったが、場を鎮めるにはこれしかなかった。
「とりあえずご飯食べながら話そうか、夢美」
優しく促されたその言葉が、いつにも増して夢美には響いた。
そこにあったのはただの食事の風景。ただの親子の会話。
――――日常。そこにあったのは、ただの日常であった。
だからこそ、夢美には百合の言葉も、その日常も響いた。
ありふれた日常に、少し前の夢美ならそれは響かなかったであろう。
訪れた『悪夢』に苛まれた結果――そうなったのは言うまでもない。
「夢美。今日は学校、休みなさい。いいわねっ!」
テーブルを挟みながら、向かい合う夢美と百合。食事も終わり、そう通達が言い渡された。
その異様な剣幕に夢美は圧されて首を縦に振る。それはもう何度も、何度も。
「それにしても、綺麗な赤よね~。まるでリンゴね、この光沢ぶりは。どんな髪染め使えばそうなるのかしら……やっぱり若さ?」
「ちょっと、お母さん!? や、やめてよー」
夢美の背後に回り込み、髪を撫でて遊ぶ百合。嫌がる夢美を他所に、その髪質に嫉妬の炎を燃やしているのか――老いを憂う百合がいた。
「……ねぇ、夢美。何かあった?」
雰囲気を一変させる声色であった。
背後から夢美を包容し、問いただす百合。
不意を突く百合の行動に、夢美は母を感じた。とても大きな存在なのは言うまでもなく――家族の異変に、いち早く気づいてくれるのはやはり母親なのだと、夢美は思った。
「……っ。な、何もないよ! ちょっと怖い夢見ただけだから……」
「……目、腫らすほどの夢だったの?」
――――よく見てる。
娘の赤髪に引きずられることなく、その下の赤を見つけ出したのは、やはり母親。
どんなに大きな何かで隠しても、観察されたらやはり露見させられる。
改めて母親の偉大さを垣間見た。
「夢なんだから、私にはどうしようも出来ないじゃん」
「確かにそうね。だけど、夢美が怖い夢を見るくらい追い込まれてるなんて、お母さん知らなかった。ご――」
「――ま、待って! それは無し。謝るのは無しだよ!」
ご――感じ取った謝罪の言葉を掻き消す。
立ち上がって、向かい合いながら、
「お母さんは何も悪くない。私が怖い夢見たのも、赤く染めたのも……全部私のせい、だから……」
「……そっか。分かった、もう何も言わないから。言いたくなったら話してちょうだいね」
夢美の赤を撫でながら、百合はそれ以上野暮な真似はしなかった。
話したとして、根本的な解決などない。それどころか笑われる。それが普通だ。だが、それでも受け入れてくれるという、謎の自信はあった。
しかし、それでも夢美は言わなかった。
――――死。
それは何よりも辛い。残された母達を思うとそれは――。
夢美が殺傷された世界などない。夢美は今、生きているからだ。
もしあったとして、その世界の百合は、いったいどんな心境でそれを受け入れたのだろうか。
分からない。分かりたくもない。
「とりあえず、今日は外出禁止! 来客も全部無視していいから――ただ、掃除洗濯よろしくね」
茶目っ気混じりに、仕事を押し付けられた。
部屋を後にしようとする百合に、「一ついい?」と夢美の一言に、扉を開けた百合は振り返って、「なに?」とそれを待つ。
「……約束って相手が忘れてても、有効……かな?」
「当たり前よ! むしろ忘れてる方が有利よ、夢美」
「……え? なんで?」
「なんでって、それはねぇ――」
『もっと大きな約束を取り付けられるからよ』
「――行ってくるね」
夢美を指差して、女の伝授のようなものを残し、百合はその場を去った。
「そういうものかなー」
一人残された夢美は、物思いに更ける時を――これからを生きる時を――その時に備える時を――ただ今は、食器を洗うことが最優先事項としてそれは、テーブルの上にのさばっているのであった。
百合からの約束。意図しない大きなものへと変化させないために。




