第八話「タマユラへ」
■メルセミュ
朝になっても、リュバンは帰らなかった。それでわかった。待っていても、来ない。
ほとんど眠れなかった。パン屋のテーブルに座ったまま、夜が明けた。
ツムギがカウンターにいた。いつも通りだった。朝の仕込みを始めている。リュバンがいなくても、同じ動きだった。
「フィロニィ」
振り返ると、フィロニィも眠れていない顔をしていた。でも、髪も声も乱れていなかった。
「行きましょう」
私が言う前に、フィロニィが言った。
■フィロニィ
依頼所に寄りました。グレンゼ様とガジ様には、一言だけ残しました。リュバン様が帰らない。タマユラ遺跡を確認しに行く。それだけです。
許可を求めるつもりはありませんでした。ただ、消えるのは違うと思いました。
外に出ると、ヴェレフェーヌの朝が広がっていました。白い石畳。清潔な光。いつもと同じ朝でした。でも、少し遠い感じがしました。
「急ごう」
メルセミュ様が歩き始めます。私も並びました。
石畳が土に変わる。土の先に草がある。その向こうに、道が続いています。
リュバン様が毎週歩いていた道です。一人で。そのことが、少し遅れてきました。
■メルセミュ
歩きながら、フィロニィに聞いた。
「遺跡、どのくらい?」
「半刻ほどかと」
草の道が続く。朝の風が冷たかった。眠れていないせいか、空気が少し鋭く感じた。
リュバンはここを毎週歩いていた。毎週月曜日。ずっと一人で。
知っていたら、と思った。でも、何ができたかはわからなかった。
「メルセミュ様」
フィロニィが前を向いたまま言う。
「今は、見つけることだけ考えましょう」
そうだね、と思った。声には出さなかった。
草の向こうに、石の入口が見えた。タマユラ遺跡。
足が止まった。
空気が、ここから変わっている。石の匂い。時間が少し薄くなる感じ。
「行こう」
返事はなかった。フィロニィが一歩踏み出した。私も続いた。
外縁は静かだった。
でも、嫌な静かさだった。石の匂いはある。空気も重い。何かが息を潜めているみたいだった。
書棚区画へ進む。棚が見えてきた。
止まった。
乱れている。棚が崩れているわけじゃない。でも、何かが触れた感じがした。本が一冊、斜めになっている。床に紙が一枚落ちている。
リュバンがここにいた気がした。でも、もういない。
床に何かが落ちていた。布の切れ端だった。小さい。でも埃がついていなかった。最近ここにあったものだとわかった。
「フィロニィ」
■フィロニィ
「見ています」
床を確認していました。
外縁からここまで、埃の積もり方が乱れています。誰かが歩いた跡の感触がありました。一人分。奥へ向かっています。
書棚区画の奥に、あの石の欠片が落ちていました。表面に細かい文様があります。まわりだけ、埃が払われていました。
見た瞬間、手が止まりました。
「メルセミュ様」
「……知ってる」
メルセミュ様も気づいていました。森の依頼の時に見たものと、同じ系統の文様でした。
触れませんでした。触れない方がいいと判断しました。
「これは、リュバン様のものではありません」
「じゃあ、誰が」
答えられませんでした。でも、足跡が奥へ続いています。湿気が強くなる方向へ。
■メルセミュ
奥へ進んだ。
湿気が増していく。水はないのに、湯気みたいな匂いがした。
そこで、見えた。
床に、赤い染みがあった。
「っ」
声が出た。止まれなかった。近づいた。
小さくなかった。乾いていなかった。昨日のものだとわかった。
「リュバン……」
名前が出た。呼んでも、返事はない。当たり前だ。でも、呼ばずにいられなかった。
■フィロニィ
メルセミュ様の声が、少しだけ揺れていました。
私も、胸の中に何かが落ちる感触がありました。でも今は、それより先にやることがあります。
しゃがんで、染みを見ます。量を確認します。広がり方を確認します。
「昨日のものです」
声を落として言いました。
「量からすると、深い傷です」
メルセミュ様が私を見ます。
「でも」
続けます。
「ここから、跡が奥へ続いています。引きずられた跡です。つまり、動かせる状態でした。殺していない」
「生きてる」
「可能性は高いです」
可能性、という言葉を使ったのは、確信が持てなかったからです。でも、あると思っていました。
血の跡は、さらに奥へ続いていました。暗い方向へ。
メルセミュ様が立ち上がりました。私も立ちました。
言葉はありませんでした。二人で、奥へ歩き始めました。




