第五話「雨宿り」
■メルセミュ
空が変わったのは、あんぱんを半分食べたあたりだった。
窓の外が急に暗くなる。風の音が変わる。次の瞬間、雨が来た。
大粒だった。
石畳が一瞬で濡れていく。白い道が、すぐに鈍い色へ変わった。
「……急だね」
フィロニィが窓を見ていた。
私はあんぱんの残りをかじる。
どうせ、すぐ止むかもしれない。でも、この勢いだと少し待った方がよさそうだった。
「止むまでいていいですか」
フィロニィがカウンターの少女に聞く。
少女は私たちを見た。でも、何も言わなかった。
そのかわり、奥の扉が開いた。
リュバンが出てくる。手に新しいパンをいくつか持っていた。棚の補充らしい。
窓の外を一瞬だけ見て、それから言った。
「止むまでいればいい」
短い声だった。
私はそれを聞きながら、椅子に少し深く座り直した。
雨の音が強くなる。窓を叩く音が、さっきより近い。
店の中は静かだった。
■フィロニィ
雨が窓を叩いています。
リュバン様が棚にパンを並べています。
どこに何を置くか、迷いがありません。手順に無駄がない。毎日、同じ流れを繰り返してきた人の動きでした。
置く。整える。次へ移る。
その間に視線だけで全体を見ているようでした。
少女がカウンターの奥へ消えました。しばらくして、戻ってきます。手に二つ、カップを持っていました。音もなく、私たちのテーブルへ置く。それだけで、また戻っていきました。
カップの中に、温かい液体が入っています。薄い黄緑色でした。湯気が立っています。
「これは何ですか」
少女に聞きましたが、もう背中を向けていました。返事はありません。
ですが、置いていったのですから、飲んで構わないのでしょう。
■メルセミュ
カップを覗き込む。
薄い黄緑色。草みたいな匂いがする。でも、草そのものとも少し違う。
「飲んでいいのかな」
「置いてくれたのですから、そういうことだと思います」
フィロニィが静かに言う。
一口飲んだ。
苦い。思ったよりちゃんと苦い。でも、そのあとに静かな甘みが来た。舌の奥に残る感じがする。
「なにこれ」
フィロニィも一口飲む。少しだけ目が止まった。
「わかりません。でも、嫌いじゃないです」
私もそう思った。
その時、リュバンが棚の補充を終えて、こっちへ来た。私たちのカップを一瞬見る。
「口に合ったか」
「苦いけど、嫌いじゃない。これ何?」
「煎茶だ。茶葉を煮出したもの」
「どこで覚えたの?」
リュバンは少しだけ間を置いた。
「異国の書、というものがある」
「異国の書?」
リュバンが椅子を引いた。座る。
話すつもりなんだ、と思った。
「遺跡の書庫で見つけた。三年前だ」
「字は読めなかった。見たことのない文字だった。絵が多かった。料理の本みたいなものだと思った」
「それが、この店のパンに?」
「ああ」
あっさりしている。でも、軽くはなかった。この人はたぶん、そういうことをずっと続けてきた人なんだと思った。
「全部そこから来てるの?この店のもの」
「全部じゃない。でも、ほとんどは」
リュバンが窓の外を少し見る。雨はまだ降っている。石畳の向こうが、少し白く煙っていた。
「他にも書があった。少しずつ集めている」
「まだ探してるの?」
「ああ」
店の奥で、少女が何かしている気配がする。雨の音。煎茶の湯気。パンの甘い匂い。全部が静かに混ざっていた。
私はカップを持ったまま、リュバンを見た。
「また来てもいいかな。ここ」
リュバンが私を見る。少しだけ間があった。
「構わない」
低い声だった。でも、その声が耳の奥に少し残った。
煎茶の苦みも、まだ舌に残っていた。嫌いじゃなかった。
リュバンは奥に戻っていった。店の中が、また静かになった。
私はカップを持ったまま、何となくカウンターの少女を見ていた。
布巾でカウンターを拭く。棚のパンを一度見る。また布巾を持つ。
確認でも、考えながらでもない。ただ、動いている。
「フィロニィ」
小声で呼ぶ。
「あの子、さっきからずっとああだと思わない?」
フィロニィが少し間を置いた。
「ええ。私も見ていました」
フィロニィが立ち上がって、カウンターに近づいた。
「さきほどのお茶、美味しかったです。いつも出しているのですか」
少女が振り返る。こちらを見ている。
「はい」
「お名前を聞いてもいいですか」
「ツムギです」
返事は速い。でも、会話をしている感じがしない。問いに対して答えが出てくる。ただ、そこで止まる。次を繋ごうとしていない。
「ツムギさんは、ここで働いて長いのですか」
「はい」
フィロニィが席に戻った。
その後も、ツムギはカウンターに立ったまま窓の方を向いていた。
どこを見てるんだろう。
外を見ているのはわかる。でも、外の何かを見ているわけじゃなさそうだった。雨でも、石畳でも、人でもない。
その目が、頭に残った。
「答えてるのに、話してない感じだったね」
「ええ」
フィロニィが静かに言った。
戦争のせいだとか、人見知りだとか。そういう言葉では、たぶん説明できない。
雨がまだ降っている。ツムギの目が、まだ頭の中にあった。




