第三話「森の中で」
■メルセミュ
夜明け前に起きた。グレンゼがそう言っていたから。
窓の外はまだ暗い。ヴェレフェーヌの石畳が、街灯の光を静かに反射している。
荷物を確認する。杖。魔力石。携帯食。全部ある。
部屋を出ると、廊下にフィロニィがいた。もう準備が終わっている。早い。
「おはようございます、メルセミュ様」
「……おはよ」
眠い。でも言わなかった。
一階に下りると、グレンゼとガジがすでにいた。グレンゼは地図を見ている。ガジは何かを食べている。
「揃ったな」
グレンゼが顔を上げた。
「行くぞ」
外に出た。朝の空気は冷たかった。ヴェレフェーヌの街はまだ眠っている。開いている店はない。人の気配もほとんどない。
石畳を四人で歩く。足音だけが響く。
街の外れに出ると、道が変わった。石畳から、土の道へ。両側に木が増えてくる。空が少しずつ明るくなってきていた。
「ヴァルト森林地帯まで、歩いて半日だ」
グレンゼが前を向いたまま言う。
「魔族の目撃は森の入り口付近が多い。まず様子を見る。無理はするな」
「無理しないとは言えないけど」
私が言うと、グレンゼが少し間を置いた。
「するな」
ガジが小声で笑った。
道が続く。朝の光が木の間から差し込んでくる。鳥の声がした。
ヴェレフェーヌが遠くなっていく。振り返ると、白い街並みがまだ見えた。その向こう、丘。
エリュシオンの丘。
朝の光の中で、何もない丘が静かに光っていた。
また気になった。でも、今は前を向く時だ。
私は杖を握り直して、歩き続けた。
■フィロニィ
道中、グレンゼ様はほとんど喋りませんでした。それがこの方の普通です。必要なことだけを、必要な時に言う。
ガジ様は逆でした。歩きながら、他愛のない話を続けています。街で見かけた看板の話。昨夜の食事の話。誰かに返事を求めているわけでもない。
それでも、その声があると場が和みます。ガジ様はそれをわかってやっているのか、わかっていないのか。たぶん、わかっていないのだと思います。だからこそ自然なのでしょう。
メルセミュ様は少し後ろを歩いていました。杖を持ちながら、周囲を見ています。警戒しているのか、ただ景色を見ているのか。両方だと思います。
森が近づいてきました。
空気が変わります。木が多くなると、音が変わる。鳥の声が遠くなる。代わりに、葉の擦れる音が増える。
私は回復薬の場所を頭の中で確認しました。左の腰袋。すぐ取り出せる位置。
何事もなければそれでいい。でも、何事もないとは限りません。
「森の手前で一度止まる」
グレンゼ様が言いました。
全員が足を止めます。
木々の間、薄暗い。風がない。音も、さっきより少ない。
グレンゼ様が剣の柄に手をかけます。ガジ様の表情が変わりました。笑みが消えて、目が細くなる。
私は聖印を握りました。
メルセミュ様が杖を構えます。小さく息を吐く音がしました。
森は静かでした。静かすぎました。
■メルセミュ
最初に気づいたのは、匂いだった。
土の匂いじゃない。もっと鋭い。乾いた鉄みたいな、金属に近い匂い。
「グレンゼ」
声に出すより先に、グレンゼはもう剣を抜いていた。
木々の間に、影が三つあった。
でも、同じじゃない。
一つは大きい。肩が張っていて、前足みたいな腕が太い。一つは身を低くしている。跳ぶつもりなのが見てわかる。もう一つは細い。じっとしているのに、次の瞬間どこへいるかわからなくなりそうな感じがした。
「三体。散開するな。固まれ」
グレンゼの声が低く落ちる。
その直後、大きいやつがまっすぐ前に出た。迷いがない。グレンゼを潰すつもりで来ている。
でも、グレンゼの方が速かった。
一歩。踏み込む音。剣が横に走る。重い身体が、そのまま斜めに崩れた。土が跳ねる。
同時に、身を低くしていたやつが跳んだ。今度はこっちだった。
「メルセミュ」
グレンゼの声が飛ぶ。
「わかってる」
私は杖を構えた。右手の先に熱を集める。いつもの感覚。でも、森の中だと火が少し濃くなる。
杖を振る。火球が飛ぶ。
空気が一瞬だけ熱で歪んだ。直撃。影の身体が後ろへ弾かれる。黒い腕みたいなものが開いて、木にぶつかった。次の瞬間、乾いた音を立てて、そばの木に火が走る。
「木まで燃やすな」
「当たったからいいでしょ」
言い返しながら、残りを見る。
細いやつが消えていた。
横。木の間。気づいた時にはもう、ガジがそっちへ走っていた。
速い。
敵も。ガジも。
枝が揺れる。低い音が続く。姿が見えない。見えたと思ったら、もう別の木の影にいる。
次の瞬間、細い魔族の爪がガジへ振り下ろされた。
「フィロニィ!」
■フィロニィ
「はい」
メルセミュ様の声と同時に、私は聖印を握っていました。白銀の護符。刻まれた紋様が、朝の薄い光を一瞬だけ返します。
白い光が弾けました。ガジ様の横に、薄い盾のような光が立ち上がります。斜めに差し込まれた板みたいな、硬い光でした。
爪がそれにぶつかる。甲高い音。爪先が外へ跳ねる。布だけが裂けました。
ほんの一瞬、魔族の体勢が浮きます。
「十分」
ガジ様が低く言いました。
そのまま懐に滑り込む。身体を落として、下から短剣を走らせます。細い個体の首元が裂ける。黒い身体が木の根元に崩れました。
森が静かになりました。
ガジ様に怪我はありませんでした。裂けたのは上着だけです。血の匂いがしなかったので、たぶん大丈夫だとは思っていましたが、念のため袖を確認します。布が浅く裂けているだけでした。
「助かった、フィロニィ」
「次は、あまり近づきすぎないでください」
「それは相手にも言ってくれ」
そう言って笑っています。余裕があるなら、それで構いません。
倒れた魔族へ視線を移します。
三体。同じ種類ではありませんでした。
最初に倒れた個体は大きい。腕力で押す型です。次に倒れた個体は、飛びかかることを前提にした軽さがありました。最後の個体は細い。あれがいちばん厄介でした。速く、木の間を使うことを知っている動きでした。
ただ、どれも野放図ではなかった。種類が違うのに、出方が揃いすぎている気がします。
その時、一体の首元に違和感がありました。
細い紐。何かがぶら下がっています。
しゃがんで、近づきました。
小さな石でした。黒い。ただの黒ではありません。光を返さない黒でした。表面に細かい文様が刻まれています。見ようとすると、線が細かすぎて目が滑る。飾りには見えませんでした。
魔族が、こういうものをつけることはあまりありません。
■メルセミュ
「フィロニィ」
私はフィロニィの隣にしゃがんだ。
「それ、何?」
「わかりません。ただ、魔族がこういうものを持つのは珍しいです」
私は眉を寄せた。
「誰かに言われて動いてた、ってこと?」
「可能性はあります」
フィロニィが石から目を離さないまま答える。
私もあの石を見た。近づくほど、触れたくない感じが強くなる。冷たい、というのとも違う。なんか、重い。
グレンゼが近づいてきた。あの石を見て、少し黙った。
「持ち帰る。依頼所に報告が必要だ」
■フィロニィ
私は頷いて、布を取り出しました。素手では触れたくありませんでした。理由は説明できません。でも、そうした方がいいと身体が判断していました。
石を布で包みます。布越しでも、重さが妙でした。石そのものより、何かが中に詰まっているみたいな重さでした。
立ち上がる。
■メルセミュ
「これ、三体だけじゃないと思う」
グレンゼが私を見る。目だけが少し細くなる。
「根拠は」
「わからない。でも、そんな気がする」
自分でも、それ以上は言えなかった。ただ、森がまだ何かを隠している感じがした。
グレンゼは少しだけ黙った。それから周囲を見渡す。
「……奥を見る」
私は杖を握り直した。
奥へ進むほど、木が密になった。光が届かない。足元が暗い。腐った葉の匂いが強くなる。
グレンゼが先頭を歩く。剣はまだ抜いたままだった。
私は杖を構えながら、周囲の気配を読む。魔力の残り香みたいなものが、まだある。さっきの三体とは違う。もっと、重い。
「止まれ」
グレンゼが片手を上げた。
全員が足を止める。
木の向こう。暗がりの中に、何かいる。一体。大きい。さっきの大型個体より、ひとまわり以上大きかった。
動いていない。こちらを見ている。
でも、来ない。
「……なんで来ないんだろう」
「様子を見ています」
フィロニィが小声で言った。
「様子を見てる。魔族が」
「そうかもしれません。あるいは、指示を待っている」
指示。
私はその言葉を頭の中で転がした。指示を待っている魔族。あの石。三体の連携。
全部が、一本の線で繋がっていく気がした。
大型個体が、ゆっくり動いた。後退している。こちらから離れていく。
逃げた、という動き方じゃなかった。観察が終わった。そういう動き方だった。
「追うか」
ガジが言う。
「……追わない」
グレンゼが剣を下げた。
「今日の依頼は討伐と追い払いだ。深追いはしない。戻る」
大型個体が闇の中に消えていくのを見ていた。
消えた。でも、いなくなった感じがしない。
「グレンゼ」
「わかってる」
わかってる、か。
私は杖を下ろして、踵を返した。背中に、視線みたいなものを感じた。気のせいかもしれない。
でも、気のせいじゃない気もした。
森を出ると、光が戻った。
身体の緊張が、少しだけ抜ける。でも、完全には抜けなかった。
「さっきの大型、どう思った?」
フィロニィが少し間を置いた。
「強かったと思います。でも、それより気になることがあります」
「何が」
「あの個体は、私たちを記憶したと思います」
私は少し黙った。
「……また来る、ってこと?」
「わかりません。ただ、今日見たことは依頼所にきちんと伝えた方がいいでしょう」
フィロニィが前を向く。
道が続く。ヴェレフェーヌが、遠くに見えてきた。白い街並みが、夕方の光の中で静かに光っている。
きれいな街だった。でも今は、その光がどこか遠い感じがした。
フィロニィの腰袋が、少し重そうだった。




