第二話「リュリュア」
■メルセミュ
リュリュア。
聞いたことのない名前だった。
でも、匂いが足を引っ張る。
焼きたてのパンの匂い。甘くて、温かくて、少しだけ焦げたような香りも混じっている。
懐かしい、と思った。
なんで懐かしいのかはわからない。来たことなんてないはずなのに。
路地を少し進む。
白い街並みの中で、その店だけ少し色が深かった。木の扉。窓からやわらかい光が漏れている。二階まであるらしい。パン屋にしては、少し大きい。
扉を押した。
鈴の音が鳴る。
最初に入ってきたのは、匂いだった。
外より濃い。甘い匂い。焼けた小麦の匂い。温かい空気。
それから、ようやく店の中が見えた。
木のテーブルがいくつか置かれている。棚にパンが並んでいた。丸いもの。螺旋みたいなもの。細長いもの。見たことのない形ばかりだった。焼き色がきれいで、どれも少しだけ艶がある。
それから、棚の奥の方に、古い本が一冊置いてあるのが見えた。パンの甘い匂いの奥に、乾いた紙の匂いが少しだけ混じっていた。
「いらっしゃいませ」
声のほうを見る。
カウンターの奥に、小さな女の子が立っていた。
目がトロンとしている。眠そう、というのとも少し違う。起きているのに、遠いところを見ているような目だった。
私を見ている。でも、ちゃんと合っている感じがしない。
「……あの、ここってパン屋?」
「はい」
声は平らだった。歓迎してるのか、してないのかもわからない。でも、不思議と追い返されてる感じはしなかった。
私は棚のほうへ寄った。
近くで見ると、パンはもっと変だった。変というか、知らないものだった。
丸いパンの表面に、格子の模様が入っている。薄い緑色をしていた。甘い匂いがする。
「これ、何?」
「メロンパンです」
メロンパン。
知らない名前だった。でも、匂いがいい。
「一個ください」
女の子はすぐに動いた。返事はしなかった。
紙を取る。パンを包む。
手つきが正確だった。迷いがない。何度も同じ動きを繰り返してきたみたいに、無駄がなかった。
お金を払う。パンを受け取る。紙越しに、熱が手のひらへ移ってきた。
女の子はもうカウンターの奥に戻っていた。私がまだそこにいるのに、気にしていないみたいだった。
私はパンを持ったまま、店の奥を見た。
階段がある。二階へ続いているらしい。宿でもやってるんだろうか、と少し思う。
その時、奥の扉が開いた。
男が出てきた。
背が高い。白いシャツ。袖を少しまくっている。小麦粉が手と胸元にうっすらついていた。
無口そうな顔だった。整っている。でも、それより先に、静かだと思った。
出てきたのに、空気を乱さない感じがした。
男は私を一瞬見た。見た、というより、目が止まった。
それから、カウンターの女の子を見る。何も言わない。女の子も何も言わない。
でも、二人の間では何かが済んでいる感じがした。確認なのか、合図なのか、私にはわからなかった。
男は棚のパンをいくつか並べ直した。指先の動きが静かだった。形を整えるみたいに、少しだけ角度を直す。それからまた奥へ消えた。扉が閉まる音も小さかった。
私はその場に少しだけ立っていた。
何を見ているのか、自分でもよくわからなかった。
それから店を出た。
外の空気は店の中より冷たかった。手の中のパンは、まだ温かい。風が吹いて、少し癖のある金色の髪が顔にかかった。
一口かじる。
表面がさくっと割れた。その下が、やわらかい。甘い。ふわっとしている。でも軽いだけじゃなくて、ちゃんと生地の味がした。
……なにこれ。
もう一口かじる。
やっぱり甘い。こんなパン、食べたことがない。どこのレシピなんだろう。どうやって作るんだろう。
そこで、フィロニィのことを思い出した。
薬屋で待たせている。急がないと。
そう思ったのに、すぐには歩けなかった。
手の中の熱が、まだ残っていた。指先に甘い匂いがついている気がした。
また来ると思う。
理由はまだ、うまく言えなかった。
■フィロニィ
薬屋は、依頼所から二本隣の路地にありました。
地図を見なくてもわかります。
薬草の匂いがする方へ歩けばいい。
扉を開けると、木の棚に瓶が並んでいました。回復薬。解毒薬。止血薬。分類は整っています。清潔な店でした。
「いらっしゃいませ」
白髪の老店主が顔を上げます。
私は棚を順に確認しました。瓶の密封状態。液の濁り。製造からどのくらい経っているか。
古い薬は効果が落ちます。
それで命を落とした冒険者を、私は見たことがありました。
「中級回復薬を四本。それから止血薬を二本」
「はい、少々お待ちを」
老店主が棚の奥へ向かう間、私は店内を見渡しました。
奥の棚に、見慣れない瓶がありました。深い緑色の液体。ラベルには、この国のものではない文字が書かれています。
「あれは何ですか」
「ああ、最近入ってきた品でして。異国のものらしいんですが、まだ成分がよくわからなくて」
異国のもの。
この街には、そういうものが流れ着くのですね。
私は薬を受け取り、代金を払って店を出ました。
路地に戻ると、風が通り抜けました。ヴェレフェーヌの風は、どこへ行っても清潔な感じがします。
メルセミュ様は、まだいらっしゃいません。
迷子になっているのでしょうか。
おそらく、そうではないでしょう。
ただ、何かに引っかかっているのだと思いました。
メルセミュ様はああいう方です。気になったものに、足が先に動く。後から理由を考える。
私にはない動き方でした。
嫌いではありません。
しばらくして、角からメルセミュ様が現れました。手に、丸くて緑色のものを持っています。
「待たせた?」
「いいえ」
私はその手元を見ました。
「それは何ですか」
「メロンパン。食べる?」
差し出されたそれは、半分かじってありました。
「……いただきます」
一口いただきました。
甘い。
表面は軽く割れるのに、中はやわらかい。見たことのない食べ物でした。
「どこで買ったのですか」
「路地の奥に店があった。リュリュアって書いてあった」
リュリュア。
「パン屋ですか」
「うん。変わったパンがたくさんあった。あと、変わった店主がいた」
変わった店主。
私はもう一度、メロンパンを見ました。
これを作った人間がいます。
見たことのないものを、この街で作っている。
「今度、行ってみましょうか」
メルセミュ様が少し目を丸くしました。
「フィロニィから誘うの、珍しいね」
「美味しかったので」
それだけ言って、私は歩き始めました。




