第二十一話「車椅子」
■メルセミュ
走りながら、ヴェレフェーヌの石畳が見えてきた。
北門を抜ける。路地へ入る。
リュリュアが見える。
扉は閉まっていた。鳥居が立っている。
でも。
鳥居の手前に、何かあった。
車椅子だった。
誰も乗っていない。ただ、そこにあった。
「間に合わなかった」
声が出た。自分でも気づかないくらい、早かった。
胸の中に、何かが落ちた。重くて、冷たいものが。
リュバンは一人では動けない。その車椅子が、ここにある。
足が動かないまま、どこへ行ったんだ。
■フィロニィ
車椅子を見た瞬間、足が少しだけ止まりました。
でも、止まっている場合ではありません。
扉を開けます。
「いらっしゃいませ」
ツムギさんが言いました。いつも通りの声でした。
店の中を確認します。リュバン様はいません。
「ツムギさん、リュバン様は」
「外に行きました」
私は少し間を置きました。
外に行きました。
足が動かないリュバン様が、外へ。車椅子は鳥居の手前にある。つまり、車椅子を置いて境界の外へ出た。
自分で出たのか。それとも、出させられたのか。
「何かありましたか。扉が開いたとか、音がしたとか」
「扉が、少し開きました」
「それから」
「リュバンさんが、出ていきました」
■メルセミュ
フィロニィがツムギに聞いている間、私は店の中を見渡した。
テーブルの上に、パンの生地があった。途中で止まっていた。
リュバンがここにいた。仕込みをしていた。それが、途中で終わっている。
何かが起きて、中断した。
ツムギの話を聞きながら、頭の中で組み立てた。
扉が少し開いた。ツムギが反応した。リュバンがツムギを止めた。そして自分が出た。
「フィロニィ」
「ええ」
フィロニィも同じことを考えていた顔だった。
私は外へ出た。
石畳を見た。
鳥居のすぐ外に、赤いものがあった。
血だった。
一滴ではなかった。点が続いていた。角の方へ。
「フィロニィ」
「見ています」
■フィロニィ
血の跡を確認しました。
点の間隔が、ある程度均等でした。滴り落ちたものではなく、意図して落としたものに近い。
角を曲がる方向へ続いています。
深い傷からの出血なら、もっと量が多い。これは、自分で少しずつ落とした跡です。
「リュバン様が残した」
「うん。攫われながら、道を作った」
メルセミュ様がすでに血の跡をたどり始めていました。
私はその言葉を聞きながら、胸の奥に何かが重く落ちるのを感じました。
どのくらいの時間が経っているか。傷の深さはどのくらいか。出血が続いているなら、体力が削られている。
今すぐ追わなければいけません。
「追います」
「もう追っている」
私も続きました。
店の扉が、背後で閉まりました。
ツムギさんはまだ中にいます。いつも通りに。
その静けさが、今だけ遠く感じました。




