第十八話「帰ってきた」
■メルセミュ
目が覚めたら、フィロニィがいなかった。
隣の部屋の扉が開いていた。荷物もない。祈祷書も、白いハンカチも、全部なかった。
テーブルに紙が一枚あった。
「パーティーに戻ります」
私はその紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
わかっていた。こうなる可能性は、ずっとわかっていた。
でも、朝に起きたらいなかった、というのは別の話だった。
紙一枚が、思ったより重かった。
階段を降りた。
ツムギが仕込みをしていた。パンの匂いがしていた。
「いらっしゃいませ」
「おはよ」
いつも通りだった。ツムギはいつも通りだった。
リュバンはいない。二階にいるはずだった。フィロニィがいなければ、降りてこられない。
そのことを、今更みたいに思った。
客が来た。パンを渡しながら、頭の半分は別のところにあった。
フィロニィは今頃どこにいるんだろう。もうグレンゼのところに着いたか。
心配しているのか、怒っているのか、自分でもよくわからなかった。たぶん両方だった。
昼を過ぎた頃、二階へ上がった。
リュバンは窓際に座っていた。外を見ていた。
「フィロニィは」
「戻った。パーティーに」
リュバンが少し間を置いた。
「そうか」
窓の外を見たまま、何も言わなかった。
その横顔を見ていた。
この人は何を思っているんだろう。
わからなかった。いつもわからない。
「処置、私がやる。フィロニィから教わってるから」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないでしょ」
リュバンが私を見た。少し間があった。
「頼む」
小さかった。でも、聞こえた。
処置をした。フィロニィほど上手くはないと思った。でも、できた。
リュバンは何も言わなかった。でも、じっとしていた。逃げなかった。
夕方、また二階へ上がった。
煎茶を持っていった。フィロニィがよく淹れていたやつだった。
淹れながら、少し思った。フィロニィの方が上手かった。温度も、時間も、ちゃんと測っていた。
私はなんとなく作った。でも、リュバンは何も言わなかった。
隣に座った。しばらく、二人とも黙っていた。
「大変だったか」
リュバンが聞いた。
「まあ」
リュバンは何も言わなかった。でも、私の方を見ていた。
その目が、少しだけ温かかった。
「慣れたくない」
気づいたら言っていた。
「フィロニィがいなくて当たり前になるのが嫌だから」
リュバンはやっぱり何も言わなかった。でも、視線がそのままだった。否定しない。流さない。ただ、聞いていた。
「戻ってくるから」
自分に言い聞かせるみたいに言った。
根拠はなかった。でも、そう思っていた。
リュバンが少しだけ頷いた。
それで十分だった。
窓の外が暗くなっていった。
階下でツムギが動いている音がした。十八時が近い。
フィロニィがいない静けさは、ツムギの十八時と少し似ていた。
いるはずの人がいない。でも、その形だけが残っている。
私はもう少しだけ、リュバンの隣に座っていた。
数日後の午後。
棚を整えていた。客が一人、パンを選んでいる。ツムギがカウンターにいる。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
ツムギの声で振り返った。
フィロニィだった。
荷物を持っている。祈祷書も、白いハンカチも、全部ある。旅の埃が少しついていた。
でも、それより先に目についたのは、表情だった。
小さくなっていた。肩が少し落ちていた。私を見た目が、どこか申し訳なさそうだった。
何か言おうとした。
でも、フィロニィが先に言った。
「……戻りました」
声が、いつもより小さかった。
私はしばらく、何も言えなかった。
それから、言った。
「おかえり」
■フィロニィ
扉を開けた瞬間、パンの匂いがしました。
胸の奥が、少し痛かった。
「いらっしゃいませ」
カウンターのツムギさんが言いました。いつも通りの声でした。
メルセミュ様が振り返りました。
私を見ました。
何か言われると思っていました。責められるとは思っていませんでした。でも、何か言われると思っていました。
「……戻りました」
自分の声が、思ったより小さかった。
メルセミュ様が少し間を置きました。
「おかえり」
責めない。問わない。
その言葉が、思ったより深いところへ届きました。
目が熱くなりました。
こらえようとしました。でも、こらえきれませんでした。
涙が出ました。
音もなく、ただ出ました。
おかしいと思いました。泣く場面ではないはずでした。ただ戻ってきただけで、ただ迎えてもらっただけで。
でも、止まりませんでした。
■メルセミュ
フィロニィが泣いていた。
声は出ていなかった。ただ、涙が流れていた。
何も言えなかった。
何か言おうとした。でも、言葉が出てこなかった。
ただ、見ていた。
フィロニィがこんな顔をするとは、思っていなかった。冷静で、判断が速くて、感情を表に出さない人だと思っていた。
でも、今、泣いていた。
それを見ていたら、私も目が熱くなった。
「……なんで私まで」
声が少し変だった。
フィロニィが私を見た。涙をこぼしたまま、少しだけ笑った気がした。
■フィロニィ
「申し訳ありませんでした」
言いました。
「戻ってきたんだからいい」
メルセミュ様が言いました。
「でも」
「いいって言ってる」
それ以上は言わせてもらえませんでした。
少し間がありました。
ツムギさんがカウンターで動いていました。いつも通りでした。私たちが泣いていても、いつも通りでした。
それが、少しだけおかしかった。
涙が止まりました。
メルセミュ様が目を拭いながら、棚の方を向きました。
「リュバンに挨拶してきなよ。二階にいるから」
「はい」
階段へ向かいました。
一段目を踏んだ時、後ろからメルセミュ様の声がしました。
「フィロニィ」
振り返りました。
「戻ってきてよかった」
短かった。でも、それだけで十分でした。
また少し、目が熱くなりました。でも、今度はこらえました。
「はい」
そう答えて、二階へ上がりました。
扉を開けると、リュバン様が窓際に座っていました。
外を見ていました。私が入ると、こちらを向きました。
「戻りました」
頭を少し下げました。
「……申し訳ありませんでした。勝手に出ていきまして」
リュバン様が少し間を置きました。
「謝ることじゃない」
低い声でした。静かでした。
「でも」
「筋を通しに行ったんだろう」
私は顔を上げました。
リュバン様が私を見ていました。何もわかっていないわけじゃなかった。ちゃんと、見ていた。
目が、また熱くなりました。
こらえました。もうこれ以上泣くのは、おかしいと思いました。
「はい」
それだけ答えました。
リュバン様が頷きました。
「降りるか」
「降ろします。メルセミュ様も呼んできます」
■メルセミュ
フィロニィに呼ばれた。
棚を置いて、二階へ上がった。
リュバンが窓際に座っていた。私を見た。何も言わなかった。
「行くよ」
三人で階段を降りた。リュバンが手すりを持つ。フィロニィと私が両側を支える。一段ずつ。
一階に降りた瞬間、パンの匂いが濃くなった。
リュバンが少しだけ息を吐いた。
店の中を、ゆっくり見渡していた。
「変わってないな」
「変えてないから」
リュバンが私を見た。それから、フィロニィを見た。
何も言わなかった。
でも、その目が少しだけ温かかった。
三人でテーブルに座った。
フィロニィが煎茶を淹れた。手順が迷いない。温度を確かめる。時間を測る。
やっぱり、私とは全然違う。
三つのカップが並んだ。
しばらく、誰も喋らなかった。
でも、静けさの種類が違った。フィロニィがいない時の静けさじゃなかった。
「美味しい」
私が言った。
フィロニィが少しだけ口角を上げた。
リュバンが煎茶を一口飲んだ。何も言わなかった。
窓の外で、ヴェレフェーヌの午後の光が石畳を照らしていた。
三人がここにいた。
それだけで、店の空気が違った。




