第十七話「一度、戻ります」
■フィロニィ
夜になっても、ソバニで聞いた言葉が残っていました。
毎週月曜日に。
一人で。
灯りをつけたまま、しばらく動けませんでした。
薬箱を出します。消耗品を確認します。手は動きます。身体はやることを知っています。
でも。
木のカウンター。白い湯気。リュバン様の手が棚を整える動き。
確認より先に、それが浮かびました。
手を止めました。
また来るつもりでいると、気づきました。山菜蕎麦を食べてみたいと、今日思いました。次もあの店へ行くつもりでいます。
いつから、当然のように次を思い描くようになったのか。
グレンゼ様のことを考えました。
あの人は今もどこかで依頼を続けています。ガジ様も同じです。
私は今日、何をしていたのか。
依頼所へは行きませんでした。パーティーとして動いてもいません。
いつかの夜を思い出します。
戦いが終わって、焚き火のそばに座っていた夜。グレンゼ様の手が少し傷ついていました。何も言わずに包帯を出したら、何も言わず受け取りました。その手の形を、今でも覚えています。
そのことを思うと、胸の奥が少し重くなりました。
でも、もっと嫌なことがありました。
グレンゼ様への申し訳なさより先に、この店のことを考えている自分がいることです。
焚き火の夜を思い出しながら、同時にリュリュアの夕方を思い出しています。
そのことに、自分で冷えました。
命を預け合ってきた場所と、最近入った場所を、並べて考えています。重さが違うはずでした。
それなのに心が傾いている。
傾いている理由を、私は言葉にできます。リュバン様は一人では動けない。私がいなければ処置ができない。店が回らない。必要とされている。
全部、本当のことです。
でも、必要とされている場所にいたい自分が、先にあるのではないか。
リュバン様を支えたいのか。支えることを理由にして、ここにいたいのか。
どちらが先か、わかりません。わからないことが、一番嫌でした。
灯りを消しました。
暗くなります。
答えは出ていません。でも、一つだけ決まっていることがありました。
このまま留まることは、できません。
グレンゼ様とガジ様に、曖昧なままではいけない。自分自身にも。逃げているのか、そうでないのか、自分で確かめなければいけない。
だから一度、戻ります。
それが答えになるかどうか、わかりません。でも、戻らないまま答えが出るとは思えませんでした。
窓の外の石畳が、まだ少し光っています。
メルセミュ様の寝息が、静かに聞こえています。
私だけが、まだ夜の中にいました。
夜明け前に目が覚めました。
窓の外がまだ暗い。でも、もう眠れません。
メルセミュ様はまだ眠っています。寝台の上で、昨夜のまま。
静かに起き上がりました。
荷物をまとめます。薬箱。祈祷書。白いハンカチ。聖印。
手は迷いませんでした。迷わないように、動かしていました。
支度が終わりました。扉の前に立ちます。
メルセミュ様を見ました。起こすべきか、少しだけ考えました。
起こしませんでした。
起こしたら、何か言われる気がします。何か言われたら、答えなければいけない。答えられる自信がありませんでした。
紙を一枚取り、短く書きました。
「パーティーに戻ります」
テーブルに置いて、少しだけ見ました。
これだけでいいのかと思いました。でも、増やしませんでした。余計なことを書くと、嘘になる気がしたからです。
扉を開けます。
廊下は暗い。外へ出ると、空がまだ青い。石畳が冷たい光を受けていました。
歩き始めました。依頼所の方向へ。
振り返りませんでした。
振り返ったら、足が止まる気がします。止まったら、もう一度部屋へ戻る気がします。
街がまだ眠っていました。ヴェレフェーヌの朝は、いつも清潔です。
今日も変わらず、清潔でした。それが少し遠く感じました。
後ろの静けさを、振り返らないまま置いていきました。
依頼所の扉を開けると、グレンゼ様がいました。
テーブルに地図を広げていました。ガジ様がその横で何かを食べています。
二人とも顔を上げました。
「来たか」
グレンゼ様が言いました。驚いた様子はありませんでした。
「はい」
私は答えました。
ガジ様が口の中のものを飲み込んで言いました。
「メルセミュは?」
「まだパン屋にいます」
「そっか」
責めた声ではありませんでした。
グレンゼ様が地図から目を上げずに言いました。
「明日、依頼がある。準備しろ」
「わかりました」
いつも通りでした。何事もなかったように、また始まる。
椅子を引いて、座りました。祈祷書を開きます。明日の依頼を確認します。
手が動きます。いつもの手順です。
しばらくして、ガジ様が横を通りながら肩をぽんと叩きました。
「戻ってきて助かるよ。フィロニィがいないとうっかり怪我もできないからな」
軽い声でした。振り返りもしませんでした。
「それは困りますね」
口角が少しだけ上がりました。自分でも気づかないくらい、少しだけ。
息が抜けました。
祈祷書に目を戻します。グレンゼ様はまだ地図を見ています。
何も変わっていませんでした。私が戻ってきたことで、何かが変わるわけでもありませんでした。
それが正しいはずでした。ここはそういう場所のはずでした。
でも、変わらないまま戻れた自分が、戻った感じがしませんでした。




