第十六話「ソバニ」
■フィロニィ
翌朝のリュリュアは、いつも通りに始まりました。
ツムギさんが棚を整え、メルセミュ様が客に声をかけ、私は二階でリュバン様の処置をしました。
傷は落ち着いています。熱もありません。けれど、足の感覚はまだ戻りきっていませんでした。
「痛みはありますか」
「ない」
「感覚は」
「薄い」
リュバン様は短く答えました。
包帯を替え、足首から膝までの反応を確認します。右足は、やはり少し遅れました。
処置を終えると、リュバン様は窓の外を見ました。
「外に出る」
私は手を止めました。
「どちらへですか」
「近くでいい」
少し間がありました。
「それから、寄りたい店がある」
■メルセミュ
「寄りたい店?」
一階でその話を聞いて、私はすぐ顔を上げた。
リュバンが自分からどこかへ行きたいと言うのは珍しかった。しかも、店に寄りたいなんて、もっと珍しい。
「どこ?」
「ソバニ」
知らない名前だった。
「それ、店?」
「ああ」
「何の店?」
「蕎麦を出す店だ」
「そば?」
聞いたことのない言葉だった。
リュバンは少しだけ考えた。
「異国の書にあった料理だ」
「また異国の書?」
「ああ」
その言葉で、少しだけ気になった。
リュリュアのパンも、煎茶も、異国の書から来ている。そこまでは聞いていた。けれど、それが別の店にもあるとは思っていなかった。
「ソバニも、リュバンが作ったの?」
「俺だけじゃない」
「誰と?」
「ガンドフ」
また知らない名前が出てきた。
「その人の店?」
「そうだ」
「行けばわかる、って顔してる」
リュバンは否定しなかった。
「行けばわかる」
「やっぱり」
少しだけ笑った。
すると、リュバンがこちらを見た。
「今日は奢る」
「え」
思わず声が出た。
「リュバンが?」
「そうだ」
「珍しい」
「悪いか」
「悪くない。すごく悪くない」
フィロニィは少しだけ考えてから、車椅子を確認した。
「長くは外に出られません。近い場所ですか」
「近い」
「段差は」
「少ない」
「人は多いですか」
「時間を選べば」
「では、昼の客足が落ちてからです」
リュバンは頷いた。
私は棚に残っていたパンを整えながら、少しだけ笑った。
「なんか、フィロニィが完全に外出許可を出す人になってる」
「必要な確認です」
「わかってる」
そう言いながら、私はリュバンを見た。
リュバンは窓の外を見ていた。
外へ出たい、というより、私たちをどこかへ連れて行きたい顔に見えた。
そんな顔をする人だったんだなと思った。
■フィロニィ
昼を少し過ぎた頃、私たちはリュリュアを出ました。
メルセミュ様が車椅子の後ろにつき、私は横を歩きます。リュバン様の膝には薄い掛け布をかけました。筆談用の紙も、取りやすい位置に入れてあります。
ツムギさんはカウンターにいました。
「少し出てきます」
私が言うと、ツムギさんは一度だけ頷きました。
「はい」
それ以上は聞きませんでした。いつものことです。
外へ出ると、ヴェレフェーヌの石畳は昼の光を受けて白く光っていました。通りには人がいますが、朝ほど多くはありません。店の扉が開く音、荷車の音、遠くの話し声。それらが薄く混ざっていました。
リュバン様は道を知っていました。
角を曲がる時だけ、短く言います。
「右」
「次を左」
「その先」
それだけです。
でも、道案内としては十分でした。
大通りから少し外れた路地に入ると、匂いが変わりました。
パンの匂いではありません。甘くありません。けれど、温かいものが奥にある匂いでした。
看板には、ソバニ、と書かれていました。
■メルセミュ
木の扉を開けると、出汁の匂いが一気に来た。
初めての匂いだった。
温かい。少し塩気がある。奥の方に、乾いた草みたいな香りもある。でも嫌じゃない。むしろ、もっと嗅ぎたくなる。
「いらっしゃい……おっ」
奥から、がっしりした男の人が顔を上げた。
リュバンを見た瞬間、表情が変わる。
「リュバン、久しぶりだな。って、その車椅子は」
「色々あった」
「色々で済ますな」
その言い方に遠慮がなかった。
私は少し驚いた。リュバンに、ああいう声のかけ方をする人がいるんだと思った。
リュバンは怒らなかった。少しだけ目を細めただけだった。
「連れてきた」
「見ればわかる」
「二人とも世話になってる」
男の人が私とフィロニィを見た。
「ほう。こいつが人を連れてくるのは珍しい。俺はガンドフだ」
「メルセミュ」
「フィロニィです」
フィロニィが丁寧に頭を下げる。
ガンドフは大きく頷いて、奥の席へ案内してくれた。車椅子が入りやすいように、椅子を一つどかす。手つきが早かった。前にも何度かやっているのかもしれない。
「で、いつものか」
リュバンは頷いた。
「天ざる蕎麦」
私はリュバンを見る。
「てんざるそば?」
「蕎麦だ」
「それは聞いたけど、まだ何もわかってない」
リュバンは少しだけ目を細めた。
「うまい」
「説明、短すぎ」
ガンドフが笑った。
「まあ、食えばわかる。こいつの説明を待ってたら、蕎麦がのびる」
「のびるものなんだ」
「のびる」
リュバンが言った。
そこは答えるんだ、と思った。
■フィロニィ
運ばれてきたものは、見たことのない料理でした。
細い麺が、浅い器に盛られています。別の器には澄んだつゆ。横には、揚げた野菜と魚のようなものが置かれていました。
湯気はありません。冷たい料理のようでした。
「これは、つゆにつけて食べる」
リュバン様が短く言いました。
ガンドフ様が横から付け足します。
「蕎麦だ。こいつが変な書を持ってきてな。絵だけ見て、二人で試した」
「変な書?」
メルセミュ様が聞きました。
私は箸を持つ手を止めました。
リュバン様は、少しだけ間を置きました。
「異国の書だ」
その言葉で、リュリュアのパンを思い出しました。
メロンパン。あんぱん。チョココロネ。煎茶。
どれも、この国のものとは少し違う形をしていました。
「ソバニも、その書からですか」
私が聞くと、リュバン様は頷きました。
「最初は、読めなかった。文字は今も読めない。だが絵があった。道具と、形と、手順があった」
「それで作ったんですか」
「ガンドフが」
「お前が持ってきたんだろうが」
ガンドフ様が笑いました。
リュバン様は否定しませんでした。
■メルセミュ
蕎麦をつゆにつけて食べた。
最初は、よくわからなかった。
冷たい。細い。つるっとしている。パンとも、普通の麺料理とも違う。噛むと、香りがあった。
もう一口食べる。
今度は少しわかった。
「……これ、美味しい」
声が小さく出た。
リュバンがこっちを見た。
「そうか」
その顔が、少しだけ店主みたいだった。
フィロニィも食べている。真面目な顔だった。食べ物を観察している顔でもあり、何かを考えている顔でもあった。
「これが今の店になったんですか」
フィロニィが聞いた。
リュバンは頷いた。
「食べてみたら、想像より美味かった。ガンドフと一緒に店を出した」
「俺が言い出したんじゃないぞ」
ガンドフがカウンターから口を挟む。
「お前が言った」
「……まあ、そうかもしれん」
ガンドフが苦笑いした。
「最初は全然来なかった。見たことない食べ物だったからな。でも一人食べて、また一人来て、今はこうなった」
店内を見た。
冒険者が何人か、黙って蕎麦を食べている。
知らないものが、ちゃんとこの街の中にある。
最初は知らなかったものが、誰かに食べられて、また誰かに食べられて、店になっている。
リュリュアも、たぶん同じなのだと思った。
■フィロニィ
食事が終わる頃、リュバン様が言いました。
「これがきっかけで、もっと書を探したくなった」
私は顔を上げました。
「異国の書を、ですか」
「異国の書には、まだ知らないものが載っているはずだと思った。それで毎週月曜日に探しに行くようになった」
毎週月曜日。
その言葉は、軽く聞き流せませんでした。
「一人でですか」
「そうだ」
リュバン様は普通に答えました。
普通に答えたからこそ、少し引っかかりました。
毎週月曜日。異国の書を探しに行く。そこから、パンや煎茶や蕎麦が生まれている。
それは、ただの趣味ではないのだと思いました。
リュバン様は、知らないものをこの街の中へ持ち帰っている。
読めない書から形を拾い、誰かと試し、店にしている。
そのことは、少し眩しく見えました。
でも同時に、一人で行っている、という言葉だけが残りました。
毎週月曜日に。
一人で。
その重さを、私はまだうまく言葉にできませんでした。
■メルセミュ
「また見つけたら、また何か作るの?」
リュバンに聞いた。
「ああ」
「何が載ってるんだろうね、まだ」
リュバンは少し考えた。
「わからない。でも、きっとある」
その言葉が、少し温かかった。
わからないけど、きっとある。
リュバンがそう言うと、本当にどこかにある気がした。
ガンドフが、カウンターの奥から声をかけてきた。
「次は山菜蕎麦も食べてみてくれ。温かい汁で食う蕎麦は、また全然違う」
「山菜蕎麦?」
「ああ。こっちもいいぞ。身体が温まる」
温かい蕎麦。
私はフィロニィを見た。フィロニィも私を見た。
「次に来た時に」
フィロニィが言った。
「絶対食べます」
私も頷いた。
「食べる。絶対」
リュバンは何も言わなかった。でも、少しだけ目を細めた。
会計はリュバンがした。
「今日は奢ると言った」
そう言われたので、私は何も言えなくなった。
店を出る時、ガンドフが言った。
「また来い」
リュバンは何も言わなかった。でも、扉を出る時に少しだけ右手を上げた。
外に出ると、午後の光が白い石畳に落ちていた。
お腹の中に、冷たい蕎麦の香りが残っている。
次は、温かい山菜蕎麦。
その言葉も、ちゃんと残っていた。




