第十四話 数値の下降線
夏は、容赦なく続いていた。
温室のガラス越しに差し込む光は強く、
空気はわずかに揺れている。
葉の縁が、ほんの少しだけ乾いていた。
それは劇的な変化ではない。
だが――確かに、昨日とは違う。
評議会室。
リシャールが資料を机に並べる。
紙の上には、折れ線グラフ。
緩やかに、しかし明確に、下向き。
「再評価枠の平均成長率は、前月比で二・三%減少」
静かな声。
「主因は高温による環境不安定化。
特に温室区画の夜間温度が基準値を上回っています」
誰も驚かない。
予兆はあった。
だが、数値として提示されると、重みが違う。
「改善の見込みは?」
アレクシスが即座に問う。
「遮光と夜間換気で緩和可能です。
ただし完全回復には時間が必要です」
時間。
監査官来訪まで、一週間。
報告書提出まで、二週間。
時間は、あるようでない。
「拡張しなかった判断は正しかったか」
誰が最初に言ったのかは分からない。
だが言葉は、部屋に残った。
春に否決された拡張案。
再評価枠を広げ、資源を集中させる提案。
あのときは、急がないと決めた。
だが今は――
「もし拡張していれば」
アレクシスが静かに言う。
「区画数を増やし、統計的安定性を確保できた可能性があります」
レディアナが視線を上げる。
「可能性、です」
「はい」
彼は頷く。
「揺らぎを残すことは理解します。
しかし揺らぎは、安定の上にあってこそ意味を持つ」
資料を指し示す。
「現状は、単なる不安定です」
リシャールは否定しない。
「数値上は、そう読めます」
事実は冷たい。
感情を挟まない。
だからこそ、重い。
「拡張案を、再検討すべきです」
アレクシスの声は、強くも弱くもない。
だが確信がある。
「資源配分を再評価枠へ集中。
管理精度を上げ、成長率を回復させる」
「集中は、選別になります」
レディアナが即座に返す。
「成果が出やすい区画へ、さらに資源が流れる」
「成果が出るから、流すのです」
「それが焦りです」
彼女の声は、静かだが鋭い。
「焦りが制度を歪めます」
室内の空気が張る。
「春に私たちは、成功を制度にしないと決めました」
「決めたのは、拡張しないことです」
アレクシスは譲らない。
「制度そのものを固定しない、という意味ではない」
「いま拡張すれば、
“下降線を恐れて動いた”と認めることになります」
沈黙。
誰もが、その恐れを共有している。
数値は下がっている。
監査は迫る。
外部は待たない。
揺らぎは、美しいだけでは済まない。
アルフォンスは、資料を見つめている。
下降線。
ほんのわずかな傾き。
だが、それは確かに下向き。
「不安定化の予測は」
彼が問う。
リシャールは答える。
「現状維持なら、横ばいか微減。
拡張すれば短期的改善の可能性はあります」
「長期は?」
「不明です」
不明。
それが一番、恐ろしい。
「揺らぎは、耐えられるのか」
王子の独り言のような問い。
レディアナは答える。
「揺らぎは、もともと安定ではありません」
「では、不安は?」
「不安も、制度の一部です」
アレクシスは視線を落とす。
「不安を制度に組み込むのですか」
「隠さない、という意味で」
レディアナは言う。
「焦って形を変えれば、
私たちは揺らぎを守ると言いながら、
最初に揺らぎを否定することになります」
窓の外で、強い風が吹く。
温室のガラスがわずかに鳴る。
高温、不安定、下降線。
言葉が重なる。
「拡張は、まだ行わない」
アルフォンスが言う。
即断ではない。
だが先延ばしでもない。
「現状維持のまま、改善策を講じる」
アレクシスはわずかに目を細める。
「監査への説明は」
「事実を示す」
王子は答える。
「下降線も含めて」
リシャールは静かに頷く。
「了解しました」
数値は隠されない。
それは、ひとつの決意。
会議が終わる。
廊下に出たレディアナは、わずかに息を吐く。
「怖いですね」
王子が隣に立つ。
「何がだ」
「正しかったかどうか、
すぐには分からないことです」
揺らぎは、不安と隣り合わせだ。
下降線は、疑念を呼ぶ。
だが焦りは、もっと早く歪ませる。
夏の空は高い。
熱は強い。
制度は、まだ揺れている。
それでも――
揺らぎを、焦りに明け渡さない。
その選択が、正しいかどうかは、まだ確定しない。




