第一話 最初の双葉
春は、音もなく訪れていた。
学院中庭の花壇は、まだ冬の名残を抱いている。
乾いた土。均されただけの区画。
何も起きない時間を、何ヶ月も見守ってきた場所。
その朝、最初に気づいたのは名もなき一年生だった。
「あ……」
指先が震える。
土の割れ目から、ほんのわずかに覗く緑。
小さく、頼りなく、それでも確かにそこにある。
双葉だった。
やがてささやきが広がる。
人が集まり、輪ができる。
誰も触れない。ただ、見る。
「芽が……出た」
声は抑えられていた。
叫びではない。歓声でもない。
それは、祈りがほどけた時の、息のような音だった。
セレスティーヌは両手を胸に当てていた。
「……本当に」
瞳が潤む。
冬の間、彼女は何度も花壇を訪れた。
何も変わらない土に、何度も「大丈夫」と囁いた。
今、その囁きが返事をもらったような気がした。
涙が一筋、頬を伝う。
「待っていて、よかった……」
それは勝利の涙ではない。
報われた安堵の涙だった。
少し離れた場所で、アルフォンスは静かに息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた、目に見えない重石が、わずかに軽くなる。
(……出た)
制度は間違っていなかったのかもしれない。
再評価枠は、幻想ではなかったのかもしれない。
自分の判断は、暴走ではなかったのだと。
そう思いたくなる。
ほんの一瞬だけ。
その一瞬を、彼は自覚していた。
「芽吹きは、保証ではありません」
静かな声が、輪の外側から届く。
レディアナだった。
彼女は花を見ているのではない。
土を見ていた。
双葉の周囲に広がる、まだ沈黙したままの区画を。
「これは始まりです。
結果ではありません」
歓声は止まらない。
けれど、熱は少しだけ引いた。
「芽が出ることと、咲くことは違います。
咲くことと、残ることも違う」
セレスティーヌは涙を拭いながら頷く。
喜びと現実は、同時に存在できるのだと知っているから。
アルフォンスはレディアナを見る。
「……それでも、希望ではある」
「ええ」
彼女は微笑む。
「希望は保証ではありません。
だからこそ、尊いのです」
風が吹く。
双葉が揺れる。
折れそうなほど細い茎が、それでも立っている。
誰かが拍手をした。
大きくはない。
だが、広がる。
祝祭ではない。
断罪でもない。
ただ、存在を認める音。
その瞬間――
学院は、再び物語の入口に立っていた。
成功の兆しは、人を動かす。
人を期待させる。
人を油断させる。
土の下には、まだ見えない種が眠っている。
芽吹かぬまま終わるものもあるだろう。
それでも。
最初の双葉は、確かにそこにあった。
春は始まったのだ。
そして物語もまた、静かに、再起動する。




