第10話:雪解けの音
朝。
ぽたり、と音がした。
温室の軒先から、雫が落ちる。
雪が溶けはじめている。
ガラス越しに差す光は、冬のそれよりわずかに柔らかい。
王子アルフォンスは温室の扉を押す。
芽は順調に伸びている。
緑は確かだ。
だが外へ目を向けると、中庭はまだ白い。
花壇は眠り、土は固い。
「春、か」
誰にともなく呟く。
エドモンが首を振る。
「兆し、でございます」
生徒会室の窓から、断罪広場が見える。
かつて――
あの場所は、物語の中心だった。
糾弾。
涙。
声高な断罪。
だが今は違う。
雪が均一に積もり、
中央を生徒たちが横切っていく。
談笑。
待ち合わせ。
荷車の音。
誰も、特別な視線を向けない。
ただの広場。
日常の通路。
セレスティーヌが窓辺で言う。
「静かですね」
「騒ぎの後だからではない」
レディアナは微笑む。
「何も起きないからですわ」
予定表も、同じだった。
冬期休眠制度。
空白は、もはや不安を呼ばない。
空白は予定。
動かない日が、当たり前になっている。
リシャールは記録帳を閉じる。
「特記事項なし」
それは以前なら、焦燥を生んだ言葉。
今は違う。
「安定しています」
彼の声に、無理はない。
王子は窓の外を見る。
断罪広場。
かつては、物語の“補正”が働く場所だった。
偶然が重なり、
感情が煽られ、
必然のように事件が起きる。
だが今は違う。
誰も転ばない。
誰も叫ばない。
誰も劇的に現れない。
ただ、雪が溶けている。
ぽたり、ぽたり。
「殿下」
レディアナが隣に立つ。
「何をお考えで?」
「何も起きぬな、と」
「ええ」
彼女は肯く。
「物語のようには」
王子は小さく笑う。
「物語であれば、今頃また騒動が起きている」
転入生との対立。
選ばれなかった種。
確率の議論。
どれも火種になり得る。
だが、爆発はしない。
議論は続き、日常は保たれる。
温室の外で、雪が大きく崩れ落ちる。
ざさり、と音。
セレスティーヌが振り向く。
「春でしょうか?」
エドモンが静かに言う。
「まだ、冬の終わりです」
中庭の土は固いまま。
芽は出ていない。
だが、溶ける音は確かだ。
王子は断罪広場を見つめる。
あの場所は、特別ではなくなった。
舞台ではない。
裁きの場でもない。
ただの石畳。
「物語は、終わったのか」
ぽつりと呟く。
レディアナが首を傾げる。
「始まってもいなかったのかもしれませんわ」
補正はない。
劇的な逆転も、運命的な出会いもない。
確率は確率のまま。
成果は徐々に積み上がる。
芽は少しずつ伸びる。
雪はゆっくり溶ける。
誰かが選ばれ、誰かが断罪される構図は、
どこにもない。
午後。
広場を横切る生徒たちの笑い声。
雪解け水が細い流れを作る。
王子は深く息を吸う。
冷たいが、痛くない空気。
「何も起きないな」
今度は、安堵を含んでいる。
レディアナが穏やかに答える。
「それが、定着ですわ」
温室の芽は揺れる。
外の土は、まだ眠る。
断罪広場は、ただの広場。
物語の補正は、戻らない。
だが世界は崩れない。
劇的でない日々が、
静かに積み重なっていく。
ぽたり。
雪解けの音が、また一つ落ちた。
それは事件ではない。
ただ、季節が進む音だった。




