第八話 執事は身分が欲しい
「――ねえ、アレクス」
晩餐会もお開きとなり、それぞれが寝室で過ごしている。
「はい。なんでしょうか、お嬢様」
その手で結い上げたジョゼの髪を、アレクスはまたその手で丁寧に解いている。
鏡越しでも、二人の視線は交わらない。
「私、あなたに助けられすぎちゃったのかしら……」
「……はいっ?」
アレクスの語尾が上ずった。
ああ、驚きのあまり髪を引っ張らずに済んでよかった。アレクスは呼吸を整える。
「なぜ、急に突然……そのようなことを突然仰るのですか?」
呼吸は整えたものの、発言は整っていなかった。
「あなたに助けられることに慣れてしまったのかもしれないと思ったのよ〜……」
「それが私の仕事、なのですが……」
アレクスはそう答えつつ、いつも以上に慎重な手つきで髪を解いていく。
「あのね、アレクス」
「はい」
今度は何を言われるのだろう。アレクスはジョゼに感づかれないよう深呼吸する。
「私のそばで妥協するくらいなら、お相手に結婚を申し込んだほうが幸せだと思うの」
「あぅえッ?」
非常に情けない聞き返し方をしてしまった。手もとが乱れなかったことが唯一の救いだ。
(――こういうとき、父は『自分を殴れ、自分の手で』と仰っていた)
アレクスは亡き父の教えのとおり、平静を失った自分を心の中で殴ることにした。
――よし。やはり父の教えを聞いていてよかった。
アレクスは鏡越しにジョゼを見る。だが、なかなか彼女の視線を捕まえられない。
「ジョゼお嬢様」
じれったくなり、とうとうアレクスは彼女の名前を呼んだ。そこでようやく青い瞳を捕らえることができた。
「……晩餐会で、私がお嬢様をお助けできなかったことを気になさっておられるのですよね?」
「そうね〜……そうなのかもしれないわ」
「そうなのかもしれない、というのは、私が数時間前、お嬢様のおそばにいられることが私の幸せですから、と申し上げたことも関係していますか?」
「……関係してるわね……」
過去の自分を殴りにいく方法はまだ発明されていないと聞く。アレクスは発明を待つことを諦めた。
そして、ジョゼが絶対に何かを誤解していることは定かになった。
ならばまずはその件について説明しなければならない。アレクスは弁明を試みることにした。
「まず、訂正させていただきたいことがございます」
「何かしら〜……?」
鏡越しに見えるジョゼの表情は明らかにどんよりと暗くなっている。それが夜だからではないこともまた明らかだ。
「私は、お嬢様のおそばにいられることが至上の幸福だと思っております」
「……一度、【至上】の意味を調べてもいいかしら?」
「【至上】とは、これより上はない、という意味でございます。最高、最上とも言い換えることができます」
「勉強になったわ〜……」
「では、あらためて申し上げます。私は、お嬢様のおそばにいられることが至上で最高、最上の幸福だと思っております」
ジョゼからの返答はなかった。それでも構わず、アレクスは続ける。
「そして、晩餐会でお嬢様をお助けできなかったことに関しましては……」
「…………」
「……本当に、申し訳ございませんでした」
「……あなたを責めたいわけじゃないの」
「はい。承知しております」
アレクスの声色が柔らかくなったが、それはたった数秒だけだった。すぐに声色が低くなる。
「しかし、執事としてあるまじき落ち度でございました。ですから、お詫び申し上げたいのです。謝罪の意を述べたからといって、お許しをいただきたいわけでもございません」
「……なんだか難しいわ」
「そうですね……どうお伝えすればよいのか、私にも難しく感じます」
あれほど丁寧で慎重だったアレクスの手つきが、不必要にもかかわらず、ただジョゼの髪束をそっと撫でる。
「意見をころころと変えるような男を、お嬢様がお気に召すわけもないとは承知の上なのですが」
「……なあに?」
アレクスは自嘲気味に笑ったあと、こう続ける。
「……身分が欲しいです」
鏡の中で二人の視線が重なった。
「お嬢様が王太子殿下から愛を求められている、そのあいだに割り込めるくらいの身分が、私は欲しいです」
髪の表面だけをそっと撫でるだけのつもりが、アレクス自身も無意識のうちに、根もと近くまで撫でていた。だが力強いわけではない。絶対に絡ませず、そして痛むことのないよう、ゆるゆると指を上下させているだけだ。
金髪が、ただランプで照らされているだけなのに、とても美しく愛おしいと感じる。
「……けっして妥協した幸せではないのだと、伝わったでしょうか」
アレクスの瞳がランプの光を強く反射しているのが鏡越しに見えた。
「……伝わった、と、思うわ……」
ジョゼがぎこちなく答えると、アレクスは小刻みに息を吸い、
「……よかった……ッ」
そして噛みしめるようにこぼしたのだった。
「……あのね、アレクス」
「はい」
「もう少し……教えてほしいことがあるの」
「はい。お答えいたします」
アレクスの声は優しい。
「……王太子殿下は、私に愛を求めていらっしゃったのかしら……?」
ふっとアレクスは小さく笑った。
「はい。お嬢様は王太子殿下から求愛されておられました。求愛とは、殿下の場合、お嬢様とご結婚なさりたい旨をお嬢様ご自身にお伝えすることです」
「……そう……」
「ほかに、気がかりなことはおありですか?」
「そうね……」
アレクスは相変わらずジョゼの髪を大切そうに撫でている。
「もしもの話よ」
「はい」
「もし、私が殿下のご結婚相手に選ばれたなら……アレクスの幸せは、それでも至上のまま?」
アレクスの指がぴたりと動きを止めた。
「殿下からね、私に会って話すのを楽しみにしてたって言われたときね……私、びっくりしちゃって……つい、殿下の手を握り返してしまったの」
「そう……だった、のですか」
あのとき、なぜ勇気を出さずにお二人を見ていなかったのだろう。アレクスは先ほどよりもいっそう強く自分を恨んだ。
オズウィンがジョゼの手を握っていることはわかっていた。しかし、よりによってジョゼが思わずオズウィンの手を握り返した瞬間を、アレクスは見逃していたのだ。
「……お嬢様」
「なあに?」
「私の幸せが至上のままか、というご質問ですが……」
アレクスの指がジョゼの髪の表面をなぞる。
「至上のままでありたい、と、願いはします。……ですが……」
「…………」
「至上のままでいられるかは、断言できません」
「……そう。……そうなのね……」
鏡越しのジョゼは、アレクスを見ている。
「きちんとお答えできず、申し訳ございません」
「そんなことないわ。アレクスはちゃんと答えてくれたわ」
「そうでしょうか」
「ええ、そうよ」
ジョゼの表情が少し明るくなった気がする。今のアレクスには、それが雲間から覗く晴れ間のように映った。
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