第五話 お嬢様は執事の心を知らない
ジョゼは「王太子殿下をお迎えするのですし、せっかくですのでいつもより着飾ってみては?」というメイドたちの提案を採用することにした。
――いつもより着飾る必要などないほどお嬢様はすでにこれほどお美しいのに。これ以上存在感を増してしまったら王太子殿下が目をつけてしまいかねない。今ですらあらゆる人の目をひいてしまう方だというのに。
アレクスは心の中でそう嘆いたが、それはそれとしていつもより着飾ったジョゼも見てみたいのも本音だった。そして後者に負けた。
「ねえ、アレクス」
晩餐会に向けて身支度をしているジョゼは、ドレッサーの前に座り、鏡越しにアレクスへ声をかけた。
「はい。なんでしょう」
アレクスは完璧かつ丁寧な手つきでジョゼの髪に櫛を通しつつ、鏡の中のジョゼと視線を合わせた。
アレクスが「こうして誰にも咎められることなくお嬢様のお髪に触れられるとは幸せだなあ」とつい今しがたまで考えていたことは、もちろんジョゼは知るはずもない。
「このあいだ、身分がほしいと言っていたわよね〜」
「どうかお忘れください」
笑顔ではあるものの、アレクスは困っている様子だ。
「お父様に聞いてみたのよ〜。あなた、公爵家のご嫡男だったんですってね」
「……いったい旦那様に何をご質問なさっているのですか?」
アレクスの笑顔がカチコチと固まった。声も上ずった。
――まさかこのような形で出自が知られてしまうとは。許されることなら、冷や汗と脂汗を流してしまいたい。しかしジョゼの前でそのような姿は見せてなるものか。
アレクスはかろうじてなけなしの平常心を保つことに成功した。
「私じゃ身分はあげられないから……」
「身分はもう結構ですよ」
「でも……本来アレクスにあるべきだったものでしょう?」
「それは帝国で過ごしていたころの私の話です。私はもう、身も心も王国に捧げておりますよ」
「えっ?」
「え?」
ジョゼとアレクスは同時に呆けた顔になる。
「あなた、帝国出身だったの?」
―― そ こ は 聞 い て い な い の か 。
まさか肝心の出身国についてだけ説明されていなかったとは。いや、お嬢様には隠してくれと旦那様に懇願したのはほかならぬ自分なのだが。にしても、いったいどのような会話が繰り広げられたというのだろう。
アレクスは驚きを通り越し、リンデンバーグ伯とその愛娘に感心すら覚えた。
「あの……はい。帝国の公爵家の生まれです……」
珍しくアレクスの声が弱々しい。
「まあ〜、どうして教えてくれなかったの?」
「いえ……あの……てっきり旦那様からお聞きになられたものかと……」
「お父様は知っているのね?」
「……奥様もご存じです……」
「お母様まで!」
大いに戸惑いながらも、ジョゼのヘアセットを進めるアレクスの手さばきは非の打ち所がない。
「王太子殿下がお見えになる前でよかったわ……」
ジョゼは声を低くした。
――そうだ。アレクスは思い知る。
自分は帝国出身なのだ。王国の王太子においそれと顔をお見せしていい人間ではない。本来なら、こうしてお嬢様の髪に触れることさえも。
「……申し訳ございません……」
アレクスは動揺をひた隠しにする。
しかし、ジョゼから返ってきたのはアレクスの予想とは違うものだった。
「晩餐会で、なぜアレクスの実家がお取り潰しになったのか問いただそうと思っていたところだったから……」
「…………」
――ああ、本当にお見えになる前でよかった! 本当によかった!
つい今しがたまでの動揺はどこへやら、アレクスも心の底からうんうんと頷いた。
(――私などのために、身分を超えてまで、王太子殿下に問いただそうとしてくださっていたのか)
そしてアレクスの胸中はじんわりと温かくなるのだった。本当に、よい人に巡り会えた。
このブローチも生涯大事にしよう。アレクスは自分の胸元を一瞥した。
「でも、あなたのご実家のことは話題にできないわね〜……」
「はい。リンデンバーグ伯爵家のご領地は平和ですが、国境の場所によってはいつ紛争が起きても不思議ではございませんから」
「そう……」
「それに、先ほども申し上げましたとおり、身分はもう結構です」
「どうして?」
しゅんとしているジョゼに、アレクスは鏡越しに笑いかけた。
「お嬢様のおそばにいられることが私の幸せですから」
アレクスの手に髪を委ねていることなど構わず、ジョゼはくるりと振り返った。
「お嬢様?」
アレクスを見上げるジョゼは、身分がほしいとアレクスが言った、ブローチをプレゼントした日のあのアレクスのように、いかんとも表現しづらい表情だ。
「身分は?」
駄々をこねる子どものようにジョゼは繰り返した。
アレクスは思わず小さく吹き出してしまう。
「私が身分をほしがったのは……実家とも国とも関係がないのです」
「どういうことかしら」
「羨ましいだけなのですよ」
「羨ましい……?」
「はい。ふさわしい身分さえあれば、私も――」
一瞬、アレクスの喉が鳴る。鏡に映ったブローチがきらきらと輝いているのだ。
ジョゼが王太子という地位の高い人物にアレクスの実家について問いただそうと思うことができたのは、ジョゼが伯爵家に生まれたご令嬢だからである。もしも一介の平民だったとしたら、その一生のうちに王太子と会話することも、お目にかかる幸運すらも回ってこない可能性のほうが高い。
アレクスがこの場に立っていることは、すでに一生のうちの幸運を使い果たしたからなのだ。
ブローチの輝きは、そう訴えているように思えた。
「――私も、ご令嬢に結婚を申し込めるのですから」
それがアレクスの、精一杯の言葉だった。
大きく見開いたジョゼの瞳。そこに映るアレクスはにっこりと笑っている。
「さあ、前をお向きください。お髪が乱れてしまいます」
「え、ええ……そうね……」
それ以降、二人の会話は途切れた。
「――やあ! お邪魔するよ、リンデンバーグ夫人、それからジョゼ。君が噂のお嬢さんだね!」
軽快な靴音とともにリンデンバーグ伯爵邸へと姿を現したのは、品行方正、温厚篤実、文武両道、才色兼備、容姿端麗、そして【結婚したい男性ナンバーワン】、ついでに【お嬢様に会ってほしくない男性ナンバーワン】の称号を掲げるオズウィン王太子殿下その人だった。
「拝謁賜り光栄に存じます、オズウィン王太子殿下。ジョゼ・リンデンバーグと申します」
ジョゼは母に続いて恭しく一礼した。
「ああ、そんなに堅苦しいのはよしてくれ。このとおり、僕は重い空気が苦手なんだ」
ジョゼとは異なるが、たしかに眩い金髪を揺らしながらオズウィンは笑った。
その背後にはオズウィンの従者とリンデンバーグ伯の姿がある。
「聞いたよ。君、品評会の審査員として信頼されてるんだってね! 何を飲み食いしても『お嬢様が』『お嬢様に』って、その名前が聞こえてくるんだよ」
「私は領民が手塩にかけて育てたものを召し上がる幸運……何より人と立場に恵まれているだけに過ぎませんわ」
「あはは! 聞いたとおりの人柄らしい」
オズウィンもリンデンバーグ伯も上機嫌だ。視察は好調だったらしい。
「あ、でも、こうも聞いたよ」
オズウィンが碧眼をきらめかせる。
「何か持たせると何かやらかすポンコツお嬢様だってね!」
「あらまあ、思い当たる節が多すぎますわ〜」
「あはは。否定しないのかあ〜」
「うふふ。否定できる根拠がございませんの〜」
「だから晩餐会を楽しみにしていたんだ〜。あはははは」
「私も楽しみにしておりましたわ〜。うふふふふ」
――なんとお似合いの二人だろう。アレクスの心は三度目の死を迎えた。
「おや?」
客間へ向かう途中、オズウィンがはたと歩みを止めた。
「そちらのメイドのお嬢さん」
「は、はい。拝謁賜り光栄にございます、オズウィン王太子殿下」
「あはは。そんなに緊張しなくてもいいよ。それより、君が身につけているブローチだけど……」
オズウィンの視線の先では、先日誕生日を迎えたメイドが頭を垂れている。「頭を上げていいよ」とオズウィンは優しい口調で促した。
「はい。こちらのブローチは先日、光栄にもジョゼお嬢様から賜った品でございます」
「おや、そうなのか。見覚えのあるブローチだったから、気になって声をかけたんだ。驚かせてごめんね」
「と、とんでもございません!」
メイドが一礼すると、オズウィンは歩みを再開するとともに、自身の隣にジョゼを呼んだ。
「もしかして宝石商から買ったのかい?」
「はい。お隣の領地からいらした宝石商にお会いいたしました」
「やっぱり! あの宝石商、見る目は確かだよね〜」
「はい。どれも逸品でしたわ」
「僕もあのブローチが気に入ったんだけど、ブローチを贈るような女性がいないんだ。母上も、装飾品はこれ以上いらないって言うからさ」
「まあ〜。それはよいことを聞きました。王妃殿下への贈り物の参考になりますわ」
「あははは、僕には何もくれないのかい?」
「じつは殿下のために私が食後のケーキをお作りしようと思ったのですがら、あいにく周囲から止められましたの。うふふ」
「それは残念だなあ〜。ケーキを食べてみたい気持ちと、ケーキを見てみたい気持ちが半分ずつだ」
「家の者にも恵まれておりますでしょう?」
「そうみたいだね。あはははは」
「うふふふふ」
かつてこれほどまでに屋敷内が明るく賑わったことがあっただろうか。いや、ない。
「――王太子殿下にお声がけいただいてしまったわ……恐れ多いことね……」
メイドのひそひそ話がアレクスの耳に届いた。当然の反応だと思った。
アレクスはジョゼが転ばないことに安堵しつつ、それ以外の感情を無にし、執事根性のみで客間の扉を開けた。
お読みくださりありがとうございます。
ようやく王太子を登場させることができました。
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