31. フローレンス王女の葛藤
愛を得たのは、アレクだけではなかった。
アドラーベルグ王国第一王女フローレンス。
彼女もまた、この一大騒動に翻弄され、境遇を激変させた一人だ。
先の見えない病床から、マイルズという誠実な伴侶と出会い、次期女王にまでなってしまったのだから。
あの夢のような夜会からしばらく経ち、フローレンスは昔のことを思い出す心の余裕を取り戻していた。
いつか読んだ本に書いてあったことが折に触れてふっと心をよぎる。曰く、「自身の美点や誇れる資質については生まれつき持っていたとみじんも疑わず、親のおかげなどと考えもしない。一方、自身の欠点や持っていないものに関しては、親を怨む」と。
まったくもってその通り、とまでは思わなかったが、一理あるなとは感じた。
あるものに感謝せず、ないものを親のせいにする。そうなりそうなとき、あ、あれだな、気をつけなければ、と背筋を伸ばす。なんの本だったかは忘れたのに、その一節は覚えているのだから、深く心に響いたのだろうけれど、それを認めたくない自分もいる。女心とは、いや、王女心とはかくも複雑なのだ。
銀のさじをくわえて生まれてきた。だって王女だもの。衣食住に苦労するわけもなく、欲しいものはなんでも与えられ、かしずかれて生きてきた。だから不満を言ってはいけないのだ、分かっている。でも、自由はない。民のため、国のため、自分の価値を最大限に活かした結婚をしなければならない。わがままは許されない。
アドラーベルグ王国の王女として、何不自由なく育った。母から銀の髪と紫の瞳を、父から愛嬌のある顔と知性をもらった。ジャガイモ顔の父によく似ていると自分でも思う。絶世の美女と誉れ高い母の美貌は全て弟のルークにいった。母は密かにそれを残念がっているようだが、特に気にしてはいない。父の顔も、自分の顔も、好きだから。メンフクロウみたいでかわいいと言ってくれたのは、デイジーだ。
あの愛らしい未来の義妹と会わなくなってしばらく経つ。デイジーは元気にしているだろうか。
めったに風邪もひかない健康な肉体。なんでも食べられる頑強な胃腸。いついかなる時もどこか冷静でいられる頭脳。親から受け継いだありがたい財産。いつ頃からかきちんと機能しなくなった。
少し動くだけで疲れ、食欲がなく、ボーッと霞がかかったような頭。ベッドで過ごす時間が増えた。
そんなときデイジーが見舞いに来てくれた。昔と同じように、わたくしのためにフクロウを呼んでくれる。窓から身を乗り出して、「ホーホー、ホッホッ」と鳴くと、どこからかフクロウが飛んできた。デイジーは、わたくしから隠すようにしてフクロウに何かあげている。きっとヘビでしょう。わたくしに見せないように気を使ってくれているのだわ。
ルークはヘビが苦手なので、デイジーが鳥を呼ぶのをひどく嫌がっていたわね。呼んでおきながら、何もあげないと次から来てくれないんですって。小鳥には種や穀物、肉食の鳥にはヘビやネズミをあげるの。わたくしは当たり前のことだと思うけれど。ルークは「汚らわしい」と言っていたわ。あれ以来、デイジーはルークの前では鳥を呼ばなくなった。フクロウになつかれているデイジーを見ていて、昔の記憶がよみがえってきた。
デイジーがフクロウの羽根で邪気を払ってくれてから、体の調子がめきめきと良くなってきた。頭もしっかり働く。デイジーがくれた薬が効いたのだろう。食欲も戻ってきた。
久しぶりに外に出ようとベッドから起き上がり、侍女を呼ぶ。
見慣れない顔の侍女が三人現れた。
「フローレンス王女殿下。わたくしたち、デイジー様の親友である辺境女子たちの姉でございます。殿下の侍女が帝国スパイに買収されていることが分かりましたので、御身をお守りするため控えておりました」
「なんですって。証拠はあるの?」
「はい。侍女の部屋にいくつか薬がございました。殿下のお体の不調はそのせいかと」
「侍女が殿下のものと思われるアクセサリーをいくつか持っておりました」
差し出されたアクセサリーは確かに自分のものだ。亡き祖母からもらったフクロウの形をした髪飾り。紫水晶でできたフクロウの目が、自分の目に似ていて気に入っていた。
「これ、すっかり失くしたものと思っていたわ。懐かしい」
髪飾りなのだけれど、笛にもなる。子どものときはいくら吹いても音が出なかった。
ふと、口に当てて吹いてみる。「ホーホー、ホッホッ」とかわいく鳴った。
「あら、音が出たわ」
バサッと羽音がして、フクロウが窓から飛び込んできた。旋回してベッドの天蓋にとまる。
「まあ、すごいわ」
フクロウが来るなんて。フクロウが頭を右に左に傾げる。
「あ、もしかして、ごはんを待っているのではないかしら。ヘビ、ヘビはいないかしら」
「ヘビでございますね。大至急お持ちいたします。失礼」
侍女のひとりがひらりと窓から消えた。
「え、ここ三階」
「ご安心くださいませ。彼女は黒い森育ち。飛び降りるのも、登るのも得意です」
別の侍女が、まったく安心できないことを言う。
ところが本当に大丈夫だったようで、黒い森育ちの侍女は涼しい顔をして、また窓から戻ってきた。
「フクロウにヘビをあげてもよろしいでしょうか」
「ええ、お願い」
くねくねと動くヘビを、侍女はフクロウに向かって投げる。フクロウは器用にヘビをくちばしで受け止めると、そのまま丸のみした。生きたヘビがその後どうフクロウの中を通過するのか。考えると気持ち悪くなりそうなので、頭を振って忘れることにする。
「次回からは事前にヘビを捕まえておきます。失礼いたしました」
「あら、そうね。そうしてくれると助かるわ。ありがとう」
おかしなことが起こっているけれど、不思議と怖くはない。三人が、デイジーの持つ雰囲気と似ているからかもしれない。飼いならされない、都会に染まらない野生っぽさだろうか。
着替えをし、侍女が尋問されている場所に案内される。フクロウは一緒について来てくれるようだ。悠々と飛んでいる。
「こちらの鏡から隣室の状況が見えます。声も聞こえるはずです」
長年仕えてくれていた侍女が憔悴しきった様子で座っている。向かいには厳しい目をした青年。
「王族に毒を盛ったら極刑だ。有用な情報を吐ければ、命の天秤が傾くかもしれないぞ」
「毒だとは知りませんでした。お疲れがたまっているご様子でしたので、ゆっくり静養していただくため、眠くなる薬をと。それだけです」
「では、なぜ殿下の髪飾りを盗んだ」
「アドラーベルク王国は、鳥の国から花の国へ変革するのです。殿下の髪には、フクロウではなくバラの花こそがふさわしい」
侍女の目が熱に浮かされたようにギラギラする。侍女のこのような顔は初めて見た。いつも穏やかで静かな女性だったのに。いったい何がどうなっているのか。
尋問が続くにつれ、聞きたくなかったこと、信じたくないことが出て来る。足元が崩れていくような絶望。ルーク、なぜ。わたくしの愛しい弟が、信じられない。
聞きたくなくても、聞かなくてはならない。信じたくなくても、真実を見極めなければならない。わたくしは、王女なのだから。わたくしが判断を誤ると、民が不幸になる。
長い時間が経った。
「今日のところはここまでだ」
青年が尋問室を出て、こちらの部屋に入って来る。
棚の上で羽繕いしていたフクロウが、パタパタと飛んで青年の肩にとまる。会えて嬉しい、そう言ってるみたいに青年に体をこすりつける。まるで猫みたいだ。
「あなたは?」
「マイルズ・リュベナー。デイジーの兄です」
底が見通せない深い湖のような瞳。デイジーと同じ瞳だ。
「ああ、あなただったのね。デイジーからよく話は聞いていたわ」
「フローレンス王女殿下、庭に出て外の空気を吸いませんか」
「ええ、そうしましょう」
ぞろぞろと連れ立って庭に出る。爽やかな風で落ち込んだ気持ちが少しだけ晴れた。
「ルークがあのような大それた真似をするとは。わたくしが気づいて諫めるべきなのに、何も気づかなかったなんて。デイジーには悪いことをしたわ」
「心中お察しします。俺も妹を溺愛しているので、もし妹が悪の道に落ちたら──。考えるだけで吐きそうです」
「本当に。泣いて、吐いてしまえれば少しは楽になるかしら」
人前でそんなことは許されないが、部屋でひとりのときならば。
「踏み込んだ質問をしてもよろしいでしょうか」
マイルズがまっすぐ見てくる。鋭い目。亡き祖父の目に似ている。
「いいわ」
「フローレンス王女殿下は、ルークとデイジー。いえ、ルークと民のどちらをお選びになりますか」
答えは決まっている。でも、言葉にするのは身を切られるように辛い。
マイルズの肩からフクロウが飛び立ち、わたくしの周りをくるくると回る。羽根が一枚落ちてきた。手の平で受け止める。デイジーがやってくれたように、額と鼻を撫でてみる。
そう、答えは決まっているのだ。わたくしは王女なのだから。
「デイジーを、民を選びます。わたくしはアドラーベルク王国の王女ですもの」
「では、さらに踏み込んだご提案をいたします。俺と結婚しませんか。女王となるあなたを、俺は王配としてお支えします。双頭のワシもお呼びできます」
言葉を聞いて、全身に衝撃が走った。続いて頭が猛烈に痛くなる。ズキズキする。
「あ、こら、お前。殿下の頭に乗るな」
言われて分かった。フクロウに頭をつかまれていたのだ。
マイルズが腕を伸ばすと、フクロウが腕に飛び移る。つかまれた頭はまだ痛いけれど、おかしさが勝った。
「ふ、ふふふふ。ああ、おかしい。フクロウに頭に乗られるなんて。こんなときでも笑えるのね」
にじんできた涙を人差し指ではらう。
「考えたこともなかったけれど、いいかもしれない。あなたとなら、うまくやっていけそうな気がするわ、マイルズ」
「よくお考えください。ただ、ひとつだけお約束します。俺はひとりの人に決めたら絶対に目移りしません。あなただけを一生涯かけて愛し、お支えします」
「ありがとう。とても打算的なプロポーズでしたが、今ので少しましになりました」
「おっとこれは、失礼しました。まいったな。申し訳ない」
「いえ、いいのです。会ったばかりなのに、熱烈に口説かれたら信用できないわ」
弟妹を持つ同士。通じるものがたくさんありそうだ。
夜会まで何度も泣き、吐いた。
ルークが生まれたときからずっと見守ってきた。愛しい、かわいいあの子。
今さらながら、振り返るとおやっと思うことは確かにあったのだ。デイジーが初めて王宮に来たとき、
ルークはあまり嬉しそうではなかった。
「私だって、父上のように自分で見初めた女性と結婚したい」
「あら、かわいらしい子ではないの。わたくしは気に入ったわ」
ルークの愚痴をもっと聞いてあげるべきだったのではないか。ルークの不満に寄り添っていれば、こんなとんでもない事態になる前に止められたのでは。
ルークとデイジーとわたくしの三人で同じ授業を受けることがあった。歴史や帝王学、ダンスなど。領地でのびのび育っていたデイジーには、戸惑うことが多かったようだ。知らないことも多く、毎日必死で勉強していると言っていた。
デイジーは素直だから、分からないこと知らないことは、そのまま言う。
「分かりません」「知りません」「教えてください」デイジーがこの言葉を使うと、ルークは機嫌がよかった。もしかしたら、自分の方が上だと思えたからかもしれない。
デイジーが努力し続け、ルークが怠けている間に、ふたりの知識量、読解や解答能力が逆転した。その頃から、ルークはわたくしたちと同じ授業を受けなくなった。
あの時、「知らない、分からない、教えてくださいと言えることは素晴らしいことだ」そうルークに伝えられたらよかったのではないか。デイジーの美徳をきちんとルークに認識させるべきではなかったか。分からないことは恥ではない、それを叩き込めば、ルークも歪まなかったのでは。
知らないことを取り繕わず、教えを乞える謙虚な人間になれたかもしれない。
休憩時間は庭園で散歩をしたものだ。デイジーは鳥を呼んでくれた。ヘビが苦手なルーク。自分の弱みをデイジーに言えないルーク。猛禽類を呼んでヘビを与えるデイジーに嫌悪感を持ったのかもしれない。わたくしがこっそりデイジーに、ルークはヘビが苦手と言えばよかったのかしら。ルークの秘密だったから、内緒にしてしまったわ。ああ、わたくしは、いつも、いくつも間違えたのね。許して、デイジー。許して、ルーク。わたくしは、姉失格です。
どれだけ後悔しても、もう遅い。四つの辺境領地が覚悟を決めてしまった今、夜会イベントを止めることはできない。わたくしにできることは、王族として辺境領地との関係を強化し、ルークの命だけは救うこと。
夜会の前日、マイルズとの結婚を決めた。
「わたくしが正しく国を導けるよう支えてくれますか」
「全力を尽くします」
「わたくしが誤った判断をしたとき、諫めてくれますか」
「あなたが納得するまで、あらゆる手段と言葉を尽くして話します」
「わたくしたちの子が正しい道を選べるよう、共に戦ってくれますか」
「この身が燃え尽きようとも、あなたと子どものために戦います」
「マイルズ・リュベナー、わたくしの夫となってください。国のため、民のため、子どものため、共に手を取り合って生きていきましょう」
「光栄です。──ところで」
真剣な表情のマイルズが、照れくさそうにそわそわする。
「フローレンスと呼んでも?」
「もちろんよ。フローレンスでも、フローでも、フローリーでも、好きなように呼んで」
「まずはフローレンスと呼ぶよ。もうちょっと慣れてきたら愛称をつけるかも。俺のフクロウちゃんとか」
「フクロウちゃん」
おかしな愛称に、涙が出るぐらい笑えた。
「もっと笑って、フローレンス。君の笑顔が好きだ。悲しいのは知ってる。痛みは俺も一緒に引き受ける。俺の前では泣いても吐いてもいいんだ。さあ、おいで」
マイルズに抱きしめられた。初めて、人前で声を出して泣いた。マイルズは、いつまでもわたくしの頭を撫でてくれた。




