第二十三話 「人類は“名前を付ける”ことで世界を所有してきたので、逆に名前が消え始めると文明はかなり危ういんですよね」
ヒマラヤ山脈中腹。
午後四時十二分。
空は近かった。
あまりにも近すぎて、逆に現実感が薄い。
雲は谷の下を流れ、
風は音ではなく“圧力”として頬を撫でていく。
野部遠汰と九条理沙は、
石を積み上げただけの古い山道を歩いていた。
標高は既に四〇〇〇メートル付近。
酸素は薄く、
思考は静かに鈍り始める高度だった。
だが。
野部だけは相変わらず喋っていた。
「……ちなみに高地環境で人類が最初に失うのって、筋力より“抽象的思考の粘り強さ”なんですよね。だから登山事故って、“足が動かない”より先に“まあいいか”が発生し始める。判断放棄がかなり危険なんです。あとヒマラヤ登山史において、一九二四年のマロリー失踪事件はいまだに“人類は頂上へ先に到達したのか”問題として未解決なんですが、実際重要なのって到達そのものより、“人類は何故そこまでして高所へ行きたがるのか”なんですよ。ちなみにネパールでは山岳ごとに精霊信仰かなり残ってまして、特にサガルマータ周辺では“山へ入る前に許可を得る感覚”が現代でも文化的に強いです」
「……ねぇ」
九条が息を切らしながら言う。
「酸素薄いのに、なんでアンタの雑学だけ濃度上がってるの?」
「脳が危機状態ほど、言語野へ逃避するタイプなので」
「最悪の自己防衛機構ね……」
風が吹く。
経文旗。
色褪せたタルチョが、
谷風の中で絶えず揺れていた。
青。
白。
赤。
緑。
黄。
祈りを印刷した布。
だが。
その文字が、
一部だけ“読めなく”なっていた。
野部が立ち止まる。
「……始まってますね」
九条も気づく。
「文字が……消えてる?」
「正確には、“意味参照先”が剥離しています」
野部は布へ触れた。
「人類って、“名前を付ける”ことで世界を区切ってるんですよ。“山”“川”“国”“家族”“私”。全部、“ここからここまで”を定義するラベルです。逆に言うと、名前が剥がれると境界認識も崩れ始める。あとネパールって多民族国家なので、同じ場所でも民族ごとに呼称違うケース結構あるんですが、それでも“呼び続ける”ことで土地認識を維持してる側面あります。ちなみにカトマンズって語源、“木造寺院”由来説が有力ですね」
「最後の豆知識で毎回脳が滑るのよ……」
その時だった。
前方。
岩場の上。
一人の少女が座っていた。
年齢は十歳前後。
痩せている。
頬は赤い。
高地特有の日焼け。
そして。
異様に静かな目。
少女は野部たちを見る。
そして。
「……あなた達、“名前”まだあるの?」
九条の表情が変わる。
野部だけが静かだった。
「あります」
「よかった」
少女は少し笑った。
「最近、みんな忘れていくから」
風が止む。
空気が冷える。
野部がゆっくり問う。
「何を忘れていますか?」
少女は首を傾げた。
「最初は、“誰の物か”が消えた」
「……」
「次に、“誰の家か”が消えた」
九条が息を呑む。
少女は続ける。
「で、昨日から、“誰が誰か”が少しずつ消えてる」
沈黙。
谷風だけが鳴る。
野部の灰色の瞳が細くなる。
「……なるほど。“所有”の次は“個体識別”ですか」
九条が低く言う。
「かなりまずいんじゃない?」
「はい。かなりまずいです」
野部は静かに答えた。
「人類社会って、“誰が誰か分かる”前提で成立してるので。法律、家族、恋愛、責任、全部“個人識別”依存なんですよ。逆にそこ崩れると、“誰が約束したか”も“誰を愛してるか”も曖昧になる。あと認知症って、本人記憶だけじゃなく“周囲が本人を認識できなくなる恐怖”もかなり大きいので。ちなみにシェルパ民族、“共同体内での相互扶助記憶”かなり強く残る文化として有名です」
少女が小さく聞く。
「……あなた達、消えないの?」
「消えますよ」
野部は即答した。
「人類、普通に忘れますし。昨日食べた昼飯すら曖昧です。あと“名前覚えてるけど何処で会ったか分からない人”現象かなりありますよね。脳って索引構造わりと雑なので」
「今そこ安心情報じゃないでしょ」
九条がツッコむ。
だが。
少女は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
その瞬間。
空気が揺れる。
ピシ。
黒いヒビ。
空間上部。
雲の奥。
“何か”がこちらを見ていた。
巨大だった。
黒い。
だが。
輪郭が曖昧。
まるで。
「まだ定義されていない存在」そのものみたいに。
九条が杖を握る。
「来る……!」
野部は空を見る。
そして。
静かに呟いた。
「……概念捕食型ですね」
「何それ」
「“人類が世界を理解するために貼ったラベル”を剥がして回るタイプです。たぶん“外側”側の進化形。“名前が無ければ争いも差別も所有も消える”方向へ最適化してる。かなり危険です。というか思想としては一部かなり魅力的なので余計危険です。あと宗教史でも、“自我消滅による救済”思想って繰り返し出現してるんですよね。苦しみの原因を“個”へ設定すると、消す方が早いので。ちなみにネパール仏教圏では、輪廻観と自己境界認識かなり密接です」
少女が震える声で言う。
「……最近、お母さんが私の名前呼ばないの」
九条が目を見開く。
少女は続けた。
「“お前”とか、“そっち”とか……」
野部が少し黙る。
その顔から、
いつもの軽い雑談っぽさが少し消えた。
「……はい。危険段階です」
九条が小さく聞く。
「どういうこと?」
「名前って、人類にとって“個人存在の固定アンカー”なので。“呼ばれなくなる”と、自己認識かなり揺らぎます。だから人間、“自分の名前呼ばれる”だけで脳反応かなり特殊なんですよ。カクテルパーティー効果ってあるじゃないですか。騒音の中でも自分の名前だけ聞こえるやつ。つまり脳、“私は私である”認識へ名前かなり使ってる。あとネパールでは命名儀礼に占星術絡む地域結構あります」
「本当に最後にネパール情報入れるわね……」
その時だった。
黒い雲が、
ゆっくり形を変える。
顔。
人間の顔。
だが。
目も口も、
輪郭が曖昧だった。
『名前は不要』
空から声が落ちる。
『境界は苦痛を生む』
『個は孤独を生む』
『ならば』
『混ざればいい』
空気が揺らぐ。
少女の輪郭が一瞬薄くなる。
九条が前へ出る。
「させない!」
障壁展開。
紫電。
だが。
黒い雲は笑った。
『何故拒む』
『誰も傷付かない』
『誰も失わない』
『全て共有される』
野部は静かに空を見上げた。
そして。
小さくため息を吐く。
「……なるほど。かなり人類学習してますね」
灰色の瞳。
細くなる。
「確かに“個”は苦痛を生みます。比較、孤独、嫉妬、所有欲、差別。全部、“私と他者は違う”から発生する。だから境界消したくなる思想自体は、わりと人類史で何度も出てるんですよ。共同体回帰思想とか全体主義とか、極端化すると大体そこ寄りになる。あと高地共同体って、“助け合わないと死ぬ”ので共有文化強めなんですが、それでも完全共有にはならない。何故か」
黒い雲が揺れる。
『何故だ』
野部は少女を見る。
九条を見る。
そして。
静かに答えた。
「人類、“この人だけは特別”を捨てきれないので」
風が吹く。
経文旗が揺れる。
少女が小さく野部の袖を掴んだ。
「……お兄ちゃん、名前ある?」
野部は少し止まり。
それから。
ほんの少しだけ笑った。
「野部遠汰です。長いのでノベェンタでも可です。ちなみにネパールの挨拶“ナマステ”って、単なるこんにちはではなく“あなたの内なる神性へ敬意を払う”ニュアンス含む説ありまして、つまり人類、“相手を個人として認識する儀式”を挨拶文化へ埋め込んでるんですよね」
九条が呆れた顔で言う。
「こんな状況でそこまで長く自己紹介する?……」
でも。
少女は少しだけ安心した顔で笑った。
その瞬間。
黒い雲が、
わずかに軋んだ。
ちなみに創作者、「ブックマーク増えてる!」を見ると、ネコが急に知らない段ボールへ入る時くらい反射的にテンション上がります。
人類、“誰かに見つけてもらえた”だけで結構生き延びられる生物なので。
あと感想文化ってかなり特殊で、
昔の作家は数年掛けて本を書いても、読者反応ほぼ届かなかったんですよね。現代は「面白かった」が数秒で飛んでくる。インターネット、時々ちゃんと文明。
ちなみにラッコはお気に入りの石を脇に挟んで寝る個体がいますが、創作者も割と似た感じで、“この感想好き……”を心へ抱えて生き始めます。
なので、
もし少しでも「読んで良かったな」と思って頂けたら、
ブックマークや評価など頂けると嬉しいです。
作者のHPとMPと現実接続率が、
かなり回復します。




