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『境界断ちのノベェンタ』 〜観測整合維持局 第七補正執行室 野部遠汰の場合〜  作者: nobunobuwo


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第百七十四話 「“世界を知る”って、人類わりと“知識が増えること”だと思いがちなんですけど。実際には“自分の外側が存在すると理解すること”なので。知性って、世界が広がるたびに少しずつ大人になるんです」



 パンドーラ。



 砂漠。


 夕暮れだった。


 赤い砂。


 赤い空。


 赤い風。


 地平線の向こうまで続く砂丘。



 だが。


 その景色の中に。


 灯りがあった。


 井戸。


 市場。


 学校。


 診療所。


 貯水塔。



 そして。


 人。


 笑う人。


 働く人。


 学ぶ人。


 生きる人。



 かつて死の砂漠だった場所。


 今は。


 街だった。


 生命だった。



 野村部長が呆然と呟く。


「すげぇな……」


「本当に作ったんだな……」



 その時。


 砂漠の風が吹く。


 砂漠色の長いマフラー。


 青いターバン。


 夕陽。


 灰色の瞳。



 ノヴァンだった。


「いや」


 少し笑う。


「正確には作ったんじゃない」


「育ったんだ」



 静寂。



 ノヴァンは街を見渡した。


 そして。


 珍しく。


 かなり饒舌だった。


「俺は昔、港区で生きていた。朝は資本市場で始まり、夜は会食で終わる人生だった。ユニコーン企業を追い、グロースを追い、PMFを追い、KPIを追い、ARRを伸ばし、LTVを改善し、CACを最適化し、エクイティで殴り、レバレッジで飛び、スケールメリットを信仰していた。世界は課題解決で出来ていて、課題には必ずソリューションがあり、ソリューションには必ず市場があると信じていた。だが面白いものでな、人間だけは市場原理で説明出来なかった。幸福のKPIは存在しなかったし、孤独の損益計算書も無かった」



 風が吹く。



「だから砂漠へ来た」


「最初は完全に失敗だった」


「資金調達より井戸掘りの方が難しい」


「組織設計より部族間調整の方が難しい」


「DXより飲み水確保の方が重要だった」


「人間、脱水するとKPIどころじゃない」



 佐伯が吹き出す。


「それはそう」



 ノヴァンは止まらない。


「だが面白かった」


「この街には実需しか無い」


「誰かが水を運ぶ」


「誰かが教える」


「誰かが守る」


「誰かが笑う」


「すると共同体が回る」



「資本主義を否定する気は無い」


「だが共同体はもっと面白い」


「人間はROIだけで生きていない」


「信用で生きている」


「信頼で生きている」


「思い出で生きている」


「帰る場所で生きている」



 夕陽が街を照らす。



「そしてな」


 少し笑う。


「器用な人格を借りて初めて分かった」


「俺はずっと組織を作ろうとしていた」


「だが本当に必要だったのは関係だった」


「ネットワークじゃない」


「コミュニティでもない」


「もっと原始的なものだ」


「誰かの名前を知っている事だ」


「誰かの顔を知っている事だ」


「困ったら助ける事だ」


「それだけだった」



 静寂。



「最近は面白いぞ」


「学校の子供達が勝手に起業し始める」


「農業組合が自発的に改善案を出す」


「井戸管理チームがPDCAを回す」


「パン屋がブランド戦略を語る」


「誰もMBAを取ってないのにだ」



 野村部長が吹き出した。


「好きだなその話!」



 ノヴァンも笑う。


「好きだ」


「何故ならこれは本物だからだ」


「PowerPointで作った未来じゃない」


「人間が生きている未来だ」



「そして最近ようやく分かった」


「幸福とは最適化じゃない」


「幸福とは冗長性だ」


「無駄だ」


「余白だ」


「回り道だ」


「雑談だ」


「祭りだ」


「寄り道だ」


「夕焼けを眺める時間だ」



「つまり」



「港区時代の俺が一番削っていたものだ」



 沈黙。



 誰も何も言わなかった。


 ただ。


 少しだけ。


 胸に刺さった。



 ノヴァンは空を見上げた。


「だから感謝している」


「お前にも」


「器用な人格にも」


「砂漠の民にも」



「そして」



 夕陽。


 世界樹。


 遥かな空。



「この世界にもな」


 静かな声だった。



 だが。


 どこか誇らしそうだった。



 その時。


 ノベェンタが静かに頷く。


「興味深いですね」


「人類、“効率化”を文明の進歩だと思いがちなんですけど、実際には効率化そのものは目的じゃなくて余白を作るための手段なんですよね。例えば冷蔵庫や洗濯機の普及で家事時間は大幅短縮されましたが、人類はその余った時間でさらに仕事を増やしました。かなり不思議です。あと高速道路作ると移動時間減るんですが、その結果もっと遠くへ行くので結局移動時間あまり減らないんですよ。これはジェボンズのパラドックスとも少し近いです。さらに生態系でも余剰資源は遊びへ使われます。カラスは遊びますし、イルカも遊びますし、猫は仕事ゼロなのに全力で遊びます。つまり高度知性、“余裕が出来ると遊び始める”可能性あります。あとネパールの山岳民族文化だと、何日も歩いて会いに行く祭りがありますが、効率だけ考えると完全に非合理なんですよね。でも共同体維持には超合理的なんです。つまり文明って、最後は効率ではなく関係性を維持する方向へ収束するのかもしれません」



 沈黙。



 佐伯。


「相変わらず長い」



 リゼが腕を組む。


 最後まで聞く。


 最近はそうだった。


 ノベェンタが倒れてから。


 向き合う事を選んだ。


 だから今回も返す。


「でもその話、関係量子力学とも少し似てるのよ。人は世界を“自分が見ているもの”だと思いがちだけど、関係量子力学だと状態って単独では決まらないの。観測者との関係で初めて意味を持つ。だから“絶対の世界”より、“誰とどう繋がっているか”の方が重要なのよね。ノヴァンが作ったのも街そのものじゃない。井戸でも学校でも市場でもない。人と人の関係よ。関係が増えれば増えるほど世界は複雑になるし、未来予測は難しくなる。でも同時に豊かになる。攻略本が壊れ始めたのもたぶん同じ理由。パンドーラは今、未来を計算される客体じゃなくて、世界との関係を増やし続ける主体になり始めてる。量子論オタク的に言うならね。パンドーラはもう“宇宙の方程式に出てくる変数”じゃないの。“宇宙を観測し始めた観測者”になりかけてるのよ。そんな存在が生まれたら、そりゃ攻略本なんて壊れるわ」


挿絵(By みてみん)



 静寂。



 ノベェンタが微笑む。


「はい」


「それです」


「世界が広がり始めています」



 その瞬間。


 遥か空。


 世界樹が。


 少しだけ強く光った。



 まるで。


 誰かの話を。



 楽しそうに聞いているみたいに。


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