第2章 1.ギータ工房:僕も行く
翌朝、ヴァット整備工房の窓は半分だけ開いていた。
昨日は下の端だけが揺れていた布が、今日は少し上がっている。外から入った風が、作業台の端に置かれた紙を一枚だけめくった。全部ではない。一枚だけ。ギータらしい、とダッタは思った。
「日付は」
机の向こうで、ギータが言った。
ダッタは記録板を差し出した。木の板に留めた紙は、何度も書き直したせいで端が少し毛羽立っている。墜落前の航路、異音がした時刻、分からない箇所。分からないところには、分からない、と書いた。
ギータは眼鏡の奥で目を細める。
「字は荒いですが、読めます」
「それ、褒めてる?」
「読めると言いました」
「褒めてないな」
「事実です」
ダッタは口を閉じた。けれど、追い返された気はしなかった。昨日までなら、そこで胸の奥が沈んでいたと思う。今日は、記録板の端を少し握り直すだけで済んだ。
ギータは布に包んだ炉心断片を開いた。
煤けた金属の内側に、小さな光が残っている。灯りというには弱く、火というには静かすぎる。けれど昨日見たときより、芯があるように見えた。
「炉心は、完全に死んではいません」
「じゃあ」
ダッタは身を乗り出しかけた。
ギータの指が、炉心断片の手前で止まる。
「その顔をすると思いました」
「どの顔」
「今すぐ飛ばせるかもしれない、という顔です」
ダッタは椅子に戻った。
「してた?」
「していました」
ギータは帳面を開き、ダッタの記録板と並べた。帳面には、炉心、推進翼、船体の歪み、航行計器の反応が細かく書かれている。その中で、通信の欄だけが薄く囲まれていた。
「炉心に火が戻っても、船はそれだけでは安全に飛びません。外とつながる部分が死んでいます」
「外とつながる部分?」
「通信系統です。墜落前後、あなたの船がどの通信塔に反応したのか。どこで途切れたのか。近くを通った搬送便が、あなたの信号を拾っていたのか。それは工房の中では分かりません」
「港なら分かる?」
「寄港場の通信照合所に記録が残っているはずです。搬送記録も合わせれば、落ちる直前の位置を少し絞れます」
「それが分かれば、直せる?」
ギータはすぐには答えなかった。
「直せるかどうかを、もう少し正しく考えられます」
ダッタは炉心断片を見た。早く、という言葉が喉の奥まで出てきて、そこで止まった。昨日も同じ場所に立った。急いで、伸ばした手で、ギータの記録に触ろうとした。
今は記録板が自分の手元にある。
「じゃあ、僕も行く」
ギータのペンが止まった。
「僕も?」
「ギータが行くなら、僕も行く。見た方が早いし、僕の船のことだから」
言ってから、少し前のめりだったと気づいた。早く直したいだけではない。自分も役に立ちたい。ギータの横で、ただ待っているだけではなく、何か分かる人間として立ちたい。その気持ちが、記録板を持つ手に出ていた。
ギータはしばらく黙っていた。
「……同行するなら、余計なことを言わないでください」
「分かった」
「窓口で急がせない」
「分かってる」
「見たことを書いてください。決めつけないこと」
「分かった」
ギータはまだ疑っている顔だったが、完全に止める顔ではなかった。
「まあ、それなら」
扉の鈴が鳴った。
「ヴァットさん、急ぎで見てほしいんだ」
年配の男が半身だけ工房へ入ってきた。腕には小型推進翼の部品を抱えている。布に包まれた部品の端から、黒い煤が落ちた。ギータの目がそこへ向く。
「推進翼ですか」
「診療所行きの午後便だ。西桟橋で出る前の点検をしてたら、右の翼だけ音が浮いた。積み荷は薬箱と冷却箱。遅らせたくない」
「出発は」
「昼過ぎだ。予備翼に替えるか、このまま調整で出せるか、今見てほしい」
ギータの指が、帳面の角で止まった。
港へ行くなら、今出る必要がある。診療所行きの搬送便も、今見なければ午後に間に合わない。ギータの目が、炉心断片、ダッタの記録板、男の抱えた推進翼の順に動いた。
全部自分で見たい人の目だった。
ダッタはそれを知っていた。ギータは記録も、手順も、戻れる道も、自分の目で確認しないと安心できない。昨日までは、その慎重さが壁に見えた。今は、それが崩れないための支えだったのだと少し分かる。
ギータは帳面を閉じた。
炉心断片を布に戻す。次に、ダッタの記録板を見る。最後に、その記録板をダッタへ返した。
「……任せます」
「僕に?」
「今、あなたが持っている記録は、あなたの船のものです」
ギータはまだ迷っている顔だった。任せきった顔ではない。けれど、手は記録板から離れていた。
「ただし、見たことだけを書いてください。分からないところは、分からないまま持って帰ること」
「分かった」
「分かったことにしない」
「そこは、たぶん一番大事だと思ってる」
ギータは一瞬だけダッタを見た。
昨日の工房の奥、閉じた窓、崩れなかった足場。その全部を思い出したような目だった。
「なら、行ってください」
「うん」
「寄港場の東側、青い通信鏡が並んでいる窓口です。ヴァット工房の照合依頼だと伝えてください」
ダッタは頷いた。
「ダッタ」
呼び止められて、振り返る。
「読める字で」
「そこはまだ言うんだ」
「重要です」
その声はいつも通り硬い。けれど、昨日のように扉を閉める硬さではなかった。工具を渡す時の硬さだ。
ダッタは記録板を抱え、工房を出た。
扉が閉まる直前、ギータが推進翼の布を開く音がした。自分の手元に残した仕事へ戻る音だった。




