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第7話 炉心は消えていなかった

板の影にある小さな光は、燃えているというより、まだ消えていないものに見えた。


灰の奥に残った熱が、息をひそめている。ダッタは反射的に手を伸ばしかけ、指を握って止めた。


ギータはまだ気づいていない。帳面を抱え、一歩分の板の上で足元を見ている。膝は震えていたが、戻ろうとはしない。


「整備士さん」


ダッタは呼んだ。


「足元」


それだけ言って、口を閉じた。光だ。取れ。これが必要なんだ。どれも、ギータがまだ見ていないものへ勝手に札を貼る言葉だった。


ギータはダッタの顔を見て、手を見て、それから板の影へ視線を落とした。


「……炉心」


かすれた声だった。


「たぶん。俺には、そう見える」


ギータはすぐには触れなかった。


片足を乗せた板を爪先で押す。沈み方を確かめる。次に、元の床へ戻る線を見る。帳面を抱え直しながら、空いた指で板の表面を撫でる。割れ目が走っていないか。戻る足場が残っているか。


その動きは遅かった。


遅い、とダッタは思いかけた。


思っただけで、止めた。


早く取ればいい。そう言えば、また同じ場所へ戻る。急げば間に合うと思って、ダッタは何度も間違えた。


これがギータの進み方なのだ。遅く見える一つひとつが、戻るための杭なのだと思った。


ギータは帳面を開いた。黒くにじんだページの間に、古い記録札が挟まっている。端に一本だけ細い線が残っていた。


「確認項目が足りません。足場、戻り道、熱、戻った後に崩れないか」


ギータは言いながら、帳面の余白へ指を置いた。そこに項目を並べているようだった。


「どう確認する?」


ダッタが聞くと、ギータは一瞬だけ目を上げた。命令ではないと確かめるような目だった。


「まず、戻れるか」


ギータは片足を元の床へ戻した。床は沈まない。もう一度、板へ乗せる。板は小さく鳴ったが、折れない。さらにもう一度、戻る。乗せる。戻る。そのたびにギータの肩から、少しだけ力が抜けた。


「戻れる」


自分に言い聞かせるような声だった。


「一歩出ても、戻れる」


その言葉が通路に落ちると、背後の幼いギータの影が少しだけ薄くなった。消えたわけではない。ただ、握った部品の力がゆるんだように見えた。


ギータは光へ手をかざした。触れない距離で止める。光は揺れなかった。ただ、冷えた金属の奥に残っている。


「熱はありません」


「冷えてる?」


「冷えています。でも、死んではいない」


ギータは膝を折り、記録札を押さえたまま、もう片方の手を光へ伸ばす。


その手は途中で止まった。


通路の壁に黒い染みが浮きかけ、棚の奥で工具が鳴る。ギータの指がこわばった。


「また、崩れるかもしれない」


「うん。かもしれない」


ギータが振り向く。意外そうな顔だった。


「崩れないとは言えない。でも、戻れるかは今見た。持てるかは確認できる。駄目なら、戻ればいい」


「あなたにしては、慎重ですね」


「整備士さんの記録のおかげだ」


「人の記録を、勝手に使わないでください」


「ごめん」


「でも」


ギータは目を伏せた。


「使えるなら、使ってください。今だけは」


通路の空気が、わずかに軽くなった。


ギータはもう一度、光へ手を伸ばした。指先が触れる。火花は散らない。熱も走らない。小さな光は、冷たい金属片の中で静かに揺れた。


それは炉心のかけらだった。船を空へ持ち上げるには小さい。けれど、光は消えなかった。


ギータはそれを掌に乗せた。


重さはないはずなのに、その手は深く沈んだ。ギータは掌の上の小さな金属片を見つめ、次に帳面を見た。


光ではなく、それを持って戻ることが重いのだと、ダッタは思った。記録すれば、自分が一歩出たことを見返すことになる。


ギータは炉心断片を帳面の上に置いた。古い記録札の線が、淡く光を返す。黒い染みは消えない。けれど、染みの中に一本だけ読める線が走った。


戻れる。


文字ではない。けれど、そう読める形だった。


「戻ります」


ギータは言った。


「どう戻る?」


「同じ足場で。急がずに。記録を持って。光を落とさないように」


ギータは片足を元の床へ戻した。


帳面を抱え直し、炉心断片を記録札の上に置いたまま押さえる。もう片方の足を戻す。ギータは板から目を離さなかった。戻るまでが一歩なのだと分かった。


板は折れず、通路も崩れなかった。


窓の布がもう少しだけ持ち上がり、細い明るさが棚に触れた。倒れていた棚は起き上がらない。ただ、一枚だけ、床に伏せていた札が表を向いた。滲んだ文字の端が、少し読める。


点検。


「全部は戻らない。でも、一枚は読める。なら、そこから確認します」


その言葉と同時に、通路の奥で何かが閉じた。拒絶ではなく、作業の区切りに帳面を閉じるような音だった。


足元の板が床へ沈んでいく。窓の布も、棚も、黒い染みも輪郭を失う。けれど炉心断片の光だけは、ギータの帳面の上に残っている。


ダッタは自分の名前を思い出した。ダッタ・ブゴーマ。早く直したくて、相手の都合も、記録も、怖さも見なかった。


そのことを忘れないようにしなければならないと思った。


視界が白くほどけた。


戻ってきたのは、油と紙の匂いだった。作業台が目の前にあり、窓の布は下の端だけ浮いていた。


ダッタは椅子に座っていた。手は伸びていない。炉心部品にも、帳面にも、ギータにも触れていない。


ギータは向かい側に立っていた。机の上の小さな金属片は煤けた部品に見える。けれど、奥に小さな光が残っていた。


ギータは長い沈黙のあと、帳面を開いた。


「本日の整備予定は、埋まっています」


声はまだ硬い。


ダッタの胸が沈む。


けれど、ギータは続けた。


「即日では飛ばせません。原因の切り分けと部品確認が必要です」


「……うん」


ダッタは頷いた。


今も焦りはある。墜ちた自分を早く消したい。けれど、その熱では炉心は動かない。


「何が必要?」


ギータのペンが止まる。


「墜落前の航路と、異音がした時刻。分からないところは分からないと書いてください」


「分からないって書いてもいいのか」


「分からないことを空欄にする方が危険です」


手順は相変わらず厳しい。予定も空いていない。ただ、扉が完全には閉まっていなかった。


「今週中に、本診断の枠を作ります。それまでに事故前後の記録を持ってくること」


ダッタは机の上の炉心断片を見た。


「今日、飛ばすのは」


そこで言葉を切った。


今日飛ばしたい、と言えば、また同じ場所へ戻る気がした。


「今日、記録する」


言い直すと、ギータの目がわずかに動いた。


「それなら、できます」


船はまだ壊れている。町の目も、墜ちた事実も消えない。それでも、できることがある。


ギータは煤けた金属片を布で包み、机の端に置いた。


「これは預かります。頼むなら、記録を添えてください」


「分かった」


「あと。さっきのことは、全部分かったとは思わないでください」


「分かってない」


「それでいいです。分かったふりをされる方が困ります」


厳しい言葉だった。けれど、追い出すためではなかった。


ダッタは端紙を借り、作業台の端でゆっくり書いた。


墜落した。急いで直したかった。俺は、整備士さんの記録に勝手に触った。整備士さんは、記録を持って一歩出た。炉心は消えていなかった。まだ分からないこと。助けることと急がせること。


字も曲がり、言葉も足りない。けれど、空欄にするよりはましだと思った。ギータは横から紙を見て、「字が荒いです」とだけ言った。


ダッタは頷いた。


窓の布が、また少し揺れた。船は浮かない。けれど、紙の端をめくる力はあった。


ダッタはもう一度、最初の行から書き始めようとして、鉛筆を止めた。


「ヴァットさん」


呼んでから、自分でも少し驚いた。整備士さん、ではなかった。けれど、いきなり近づいた呼び方でもない。机の向こうにいる相手を、ひとりの整備士として見たときに出た呼び方だった。


ギータも、すぐには返事をしなかった。


帳面の角をそろえ、包んだ炉心断片の位置を直す。いつものように、順番を整えてから口を開いた。


「ギータでいいですよ」


声は小さかった。許可というより、訂正に近い言い方だった。


ダッタは鉛筆を持ったまま、その名前を紙の上に置く場所を探した。


「……ギータ」


呼び慣れない音が、工房の中で浮いた。


ギータは顔を上げない。


「記録は、まず日付からです」


「あ、うん」


ダッタはもう一度、最初の行から書き始めた。

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