第6話 一歩だけなら
紙を閉じるような音が、通路の奥で鳴った。
棚でも工具でもない。散らばったものの中から一枚だけ選び、なくさないように押さえた音に似ていた。
ダッタは息を止めた。
暗い通路の先で、黒い染みが少しだけ薄くなっている。消えたわけではない。ただ、足ひとつ分だけ進める場所ができていた。
その先に、ギータがいた。
帳面を抱えて、床に座っている。現実の工房と同じ服なのに、肩の線はずっと小さく見えた。背後には、部品を握ったまま戻す場所を探している幼い影が薄く残っていた。現在のギータは、その影を見ないまま帳面を押さえていた。
「整備士さん」
ダッタは呼んだ。
ギータの指が帳面の端を押さえる。返事はない。
ダッタは一歩近づきかけて、止まった。また何かを踏む気がした。
「ここにいる」
ダッタは言った。
「触らない。勝手に直さない」
返事はない。ただ、帳面を押さえる指の力が少し変わった。握るのではなく、たしかめる力だった。
「あなたは」
ギータの声は、布の下から出てくるように鈍かった。
「本当に、愚かです」
ダッタは黙っていた。
言い返す言葉は浮かんだ。助けようとしただけだ。そんなつもりじゃなかった。けれど、どれも壁に戻された。
「見ないでと言ったのに見た。触らないでと言ったのに触った。急ぐなという場所で急いだ」
「……うん」
「うん、じゃありません」
ギータの声に温度が戻った。不備のある記録を前にしたときの、細い厳しさだった。
「本当に、何も分かっていない」
「分かってなかった」
ダッタは言った。
「今も、全部は分かってない」
ギータの指が止まった。
ダッタは、急がないように息を吸った。
「だから、決めつけない。これが怖かったんだろ、とか、こうすればいいんだろ、とか」
通路の奥で、幼いギータの映像が揺れた。棚は倒れ、札も散ったままだ。
「でも、聞きたい。整備士さんが、何を持っていたいのか」
ギータは笑った。笑った、と言っていいのか分からないほど、小さな息だった。
「それを聞くのが、もう遅いとは思わないんですか」
「思う。でも、聞かないまま触るよりは、ましだと思った」
ギータは顔を上げた。目の下に暗い影がある。けれどその目は、もう完全には閉じていなかった。散らばった札、折れた工具、黒い染みを数えている。
「あなたは愚かです」
ギータはもう一度言った。
今度は、責めるだけの声ではなかった。
「考えずに触る。準備もなく進む。拾う数も知らずに、大丈夫だと言う」
ダッタは口を閉じた。
「でも」
ギータは帳面の角を指でなぞった。
「私は、その愚かさが、羨ましかった」
通路の音が遠のいた。
帳面の表紙には黒い染みが残っている。けれど端に、記録札と同じ細い線が見えた。
「私は、何かを始める前に、崩れたあとのことを数えます。落ちる部品、なくなる札、もう触るなという声」
背後の幼いギータが、部品を握る手に力を込めた。
「数えているうちに、動けなくなる。動かなければ崩れない。崩れなければ、拾わなくていい」
ギータの声は、平らにしようとしている声だった。
「でも、本当は」
そこで止まる。ダッタは待った。進みたいんだろ、と言いそうになり、それもまた先に札を貼ることだと思った。
ギータは長く息を吐いた。
「本当は、窓の外が気になっていました」
通路の向こうに、厚い布で閉じられた窓が浮かんだ。端だけが揺れている。
「見たいんです。でも、風が入ってまた棚が倒れたらと思うと、開ける前に確認したくなる」
「確認していい」
ダッタは言った。
「急かさない。開けろとも行こうとも言わない。整備士さんが確認して、持っていくものを決めていい」
「……そんなに待てる人でしたか」
「分からない」
ダッタは正直に言った。
「でも、待たないとまた壊す気がする」
ギータは黙った。
通路の黒い染みが、足元で少しだけ薄くなった。一歩分だけ木目が見え、そこに細い板が現れた。
片足を置けばいっぱいになる、頼りない板だった。
ギータは、しばらく見ていた。
「これでは足りません。渡った先も、戻れるかも分からない」
「戻れるか、確認しながらでいいんじゃないか」
ギータは、少しだけ目を細めた。
「確認しながら」
「整備士さんのやり方で」
その言葉に、ギータの指が帳面の背をなぞった。黒い染みは残ったまま、端の細い線だけが少し濃くなった。
ギータは背後の幼い影を見た。
幼いギータの膝元へ古い記録札が滑った。現在のギータは、震える手を伸ばした。何度も止まりかける。ダッタは何も言わなかった。
ギータの指が、記録札に触れる。
通路が鳴った。
崩れる音ではなかった。なくしたものが棚の奥で見つかったような、乾いた音だった。
ギータは記録札を拾い、帳面の間に挟んだ。
「持っていくんですか」
ダッタが聞くと、ギータはすぐには答えず、帳面を閉じた。表紙を押さえ、角をそろえ、背をなぞる。
「持っていかないと」
ギータは言った。
「また、分からなくなる」
ダッタは頷いた。
「何を忘れたくない?」
ギータは少しだけ考えた。
「崩れたこと」
「崩れたことを、忘れたいんじゃなくて?」
「忘れたら、また同じところで止まります」
「でも、全部拾えなかったことだけ覚えていると、動けない。だから、残ったものも記録します」
黒い染みが、板の上だけ薄くなった。
ダッタは何か言いたくなった。けれど、言わなかった。
「一歩だけなら」
ギータは言った。
声は震えていた。
「記録を持って、戻れるか確認しながら。一歩だけなら」
ダッタは頷いた。
「うん」
それ以上は言わなかった。
ギータは帳面を抱えたまま、片足を板へ乗せた。
板がほんの少し沈む。通路全体が息をのむ。棚が鳴り、札が震え、ギータの肩も揺れた。
けれど、板は折れなかった。
ギータは目を閉じた。
長い息が抜けていく。
「……折れない」
小さな声だった。
通路の奥で、閉じた窓の布が少しだけ持ち上がった。風は入らない。ただ、細い隙間ができている。
その隙間の下、板の影に小さな光が見えた。
冷えた炉心の奥に残る、火種のような光だった。
ダッタはそれに手を伸ばさなかった。
ギータも、まだ気づいていない。
ただ、一歩分の板の上で、帳面を抱えたまま立っている。
それだけで、通路はさっきより少しだけ広く見えた。




