第5話 止まった時計の奥で
音が止まると、部屋は急に軽くなった。壁の工具は角度までそろったまま沈黙し、棚の札も、部品箱も、閉じた窓も動かない。ダッタだけが、その中で取り残されたように息をしていた。
「整備士さん」
閉じた扉に声をかける。返事はない。扉の下には、インクをこぼしたような黒い線が残っていた。さっきギータが吸い込まれたことは、見間違いではなかった。
ダッタは扉を叩いた。「聞こえるか。整備士さん」返ってきたのは、木の硬さだけだった。耳の奥には、ギータの「見ないで」が残っている。怒りではない。押さえきれないものを押さえようとしている声だった。
部屋の真ん中に、古い記録札が落ちている。近くには染みのにじんだ帳面があり、棚の下には小さな作業着の袖口も見えた。ダッタは作業着から目をそらす。
古い記録札なら。作業着ではない。帳面でもない。札だ。整備士なら記録を手がかりにするはずだ。
「触るだけだ。持っていくわけじゃない」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ダッタが記録札の端に触れた瞬間、紙の感触がほどけた。札の文字が糸のように床板の隙間へ流れ込み、奥の扉へ向かっていく。扉は開かない。代わりに床が沈み、板と板の間に暗い通路が現れた。
通路には、記録札、部品、折れた工具、破れた帳面のページが散らばっている。
「……奥へ続いてる」
見ているだけなら。少し確かめるだけなら。同じ言い訳だと分かっているのに、ダッタは通路へ足を入れた。
床は、積もった紙のように柔らかい。一枚の札が靴先に触れた瞬間、壁に短い映像が浮かんだ。
幼いギータが、床に散った部品を拾っている。袖の長い作業着を着て、膝を床につけている。部品をひとつ拾い、棚を見て、止まる。棚には戻す場所がない。札がない。似た形の部品が混ざっている。
「拾えない」
声は壁の中から聞こえた。
通路の先で折れた工具が震え、別の映像が走る。棚が倒れる。音はない。倒れる瞬間だけが何度も繰り返される。部品箱が開き、札が飛び、帳面のページがばらばらにめくれる。その前で幼いギータが固まっていた。
水の中から聞こえるような声がした。
「確認したのか」
「どうして」
「もう触るな」
誰の声かは分からない。その言葉だけが、はっきり残った。幼いギータは、手を胸の前で止めている。拾おうとして止めた手。直そうとして止めた手。止めたまま、指先が震えていた。
「違うだろ。これ、子どもに言うことじゃ」
言いかけた瞬間、足元の札が一斉に裏返った。文字はない。ただ黒い染みだけが、通路の壁を這う。拾えない。戻せない。触ると、また崩れる。
「これ、見ていいものなのか」
口にした途端、通路の奥で幼いギータが顔を上げた。映像の中のギータはこちらを見ていない。それでもダッタは、自分が覗き込んでいることを急に意識した。作業着には触れていない。記録札に触れただけだ。それだけで、ここまで来てしまった。
奥の映像で、幼いギータがまた部品を拾う。ダッタは一歩近づいた。
「大丈夫」
言った瞬間、通路の壁が軋んだ。幼いギータの背後で、倒れていた棚がさらに沈む。分けられかけていた部品がまた混ざり、帳面のページが黒くにじんでいく。
ダッタは口を閉じた。けれど、閉じるのが少し遅かった。
「俺が」
その二文字だけで、折れた工具が床を跳ねた。
「また勝手に触るのか」
水の中の声が近づいてくる。
「違う。助けるつもりで」
言い訳が、通路にぶつかって戻ってきた。助けるつもりで。見るだけのつもりで。触るだけのつもりで。どれも、さっき自分が使った言葉だった。
幼いギータは、部品を握りしめたまま固まっている。ダッタに助けを求めていない。ただ、どこに戻せばいいのか分からない部品を持って、動けなくなっている。
「俺、また同じこと言ってる」
通路が少しだけ静かになった。遠くで、現在のギータの息遣いが聞こえた。どこか奥で、息を殺している。
ダッタは膝をついた。足元には札が散っている。拾えば何か分かるかもしれない。工具をどかせば進めるかもしれない。帳面を開けば、答えがあるかもしれない。
けれど、そのどれにも手を伸ばさなかった。
代わりに、幼いギータの手を見た。小さな指が、部品を握りしめて白くなっている。落としたくないのか、戻したいのか、それとも持っていることしかできないのか、ダッタには分からなかった。目は棚と床を行き来している。戻す場所を探しているのに、どこにも置けない目だった。
壊れた部品を見ていたつもりだった。
でも、そこにいたのは、壊れたものを前にして動けなくなった子どもだった。怖かったのは、壊れたことだけだったのか。戻せないことだったのか。また崩れるところを誰かに見られることだったのか。ダッタには、まだ決められない。
決めてしまったら、また勝手に触ることになる気がした。
「何が、嫌だったんだ?」
声は、さっきより小さく出た。
幼いギータは答えない。けれど、握られた部品がかすかに鳴った。硬い音ではなかった。指の中で、息を詰めたような音だった。
「触らない」
ダッタは、今度は自分にではなく、幼いギータへ向けて言った。
「勝手に直さない。勝手に戻さない」
何も解決していない。それでも、通路を押し潰していた軋みだけが少し遠のいた。動いていたのは、自分だけだった。その自分が止まると、初めて、幼いギータの息の細さが聞こえた気がした。
「どうしたい?」
問いは、通路に落ちた。幼いギータは答えない。ダッタは待った。すぐに別の言葉で埋めたくなるのを、飲み込む。
「分からないなら、分からないままでいい」
幼いギータの手が、わずかに動いた。
「今、持っていたいものは何だ?」
通路の奥で、かすかに紙がこすれる音がした。床に落ちていた古い記録札が一枚だけ裏返る。黒い染みで読めなかったはずの表面に、細い線が一本残っていた。文字ではない。ただ、途切れずに残った線だった。
閉じない帳面の染みが、ほんの少し引いた。ページの端には、幼い指で押さえたような跡がある。
「……記録」
幼い声が言った。答えというより、落としたものの名前を思い出しただけの声だった。
ダッタはその札に手を伸ばさなかった。暗い通路の先で、現在のギータの息遣いが聞こえる。まだ姿は見えない。ただ、散らばった札の中に、消えずに残った一本の線がある。
「じゃあ、それをどうするかは、整備士さんが決めてくれ」
通路は答えなかった。けれど、さっきまで水の底みたいに歪んでいた音の中に、ひとつだけ、紙を閉じるような小さな音が混じった。




