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第4話 触れてはいけない帳面

最初は、風のせいだと思った。工房の窓は閉じている。厚い布も下りている。外から入る風などない。それなのに布は内側からふくらみ、また戻り、またふくらんだ。息をしているみたいだった。


ダッタは瞬きをした。


次の言葉が来ると思った。ギータが何を言うか、自分がどう返すか、このまま断られて終わるのか。いつものように少し先が浮かぶはずだった。


けれど、何も浮かばない。


言葉ではなく、棚の影だけが見えた。格子のように細かく区切られた棚。大きさ順に並んだ工具。開かない窓。どこまでも同じ幅で続く、狭い部屋。


「……整備士さん?」


呼びかけた瞬間、工房の床が消えた。


落ちた感覚はなかった。ただ、足元の硬さが変わった。さっきまでの工房の床板ではなく、磨かれすぎた木の床だった。踏むたびに音がしない。音を立てることすら許されていない部屋みたいだった。


ダッタは、小さな部屋の真ん中に立っていた。


壁には工具が並んでいる。一本ずつ、柄の向きまでそろっていた。棚には部品箱が積まれ、箱の前には小さな札がついている。札の文字は細かすぎて読めないのに、ひとつでもずれたら部屋全体が壊れてしまいそうだった。


窓はあった。


けれど、厚い布で閉じられている。


「……ここは」


ギータの声がした。


振り向くと、ギータが帳面を抱えて立っていた。現実の工房と同じ服を着ている。けれど顔色は、さっきよりずっと薄かった。怒っているというより、目が覚めた場所をまだ信じられずにいる顔だった。


「ここ、整備士さんの店……じゃないよな」


「私にも、分かりません」


返事は、ひどく小さかった。


ギータは帳面を抱えたまま、部屋の中を見回した。窓、棚、工具、部品箱。見覚えがあるのかないのか、判別しようとしている顔だった。けれど次の瞬間、彼の指先が勝手に動いた。


傾いてもいない工具の柄を直した。


「……今、何を」


ギータ自身が、自分の手を見た。


壁の工具が、かすかに鳴った。


ちり、と小さな音。一本だけではない。隣の工具へ、さらに隣へ、細い震えが伝わっていく。


ギータは息を止めた。分からないと言ったばかりなのに、その音だけは知っているみたいだった。帳面を抱える腕に、少し力が入る。


「ここ、出られないのか」


ダッタは窓を見た。


「窓、開ければ出られるんじゃないか」


ギータの手が止まった。


「開ける前に、外を確認します」


「でも、開けなきゃ外は見えないだろ」


その言葉を言った瞬間、棚の中の部品箱がかた、と鳴った。


ギータが振り向いた。目が、まっすぐダッタを見た。


「軽く言わないでください」


「軽くって、俺はただ」


「ただ、が一番怖いんです」


部屋が狭くなった気がした。


ダッタは両手を少し上げた。落ち着け、と言う代わりの動きだった。けれどギータの表情はゆるまない。むしろ、ダッタの手の動きまで確認している。


「じゃあ、俺が先に見る。大丈夫だって。外に何があるかだけ」


棚が傾いた。


ほんの少しだった。けれど、この部屋ではその少しが大きかった。部品箱の札が一枚、ふるえながら落ちる。床に触れた札は音を立てなかった。音を立てないことが、かえって嫌だった。


ギータは帳面を胸に引き寄せた。


「その大丈夫を、私は信用できません」


「でも、何もしなきゃ」


「何もしないために、ここにいるんです」


落ちた札は、ほかの札と違っていた。


新しい紙ではない。角が丸く擦れ、紐だけが古く黒ずんでいる。そこに書かれた文字は滲んで読めない。けれど、ギータの目がそれに吸いついた。


ダッタは札を拾おうと膝を曲げた。


「待ってください」


声は鋭くなかった。むしろ、間に合わないものを見た人の声だった。


「落ちただけだろ。戻せば」


「戻さなくていい」


ギータが一歩近づいた。けれど札へ手を伸ばすわけではない。近づけば近づくほど、足が止まってしまう。床に引かれた細い線の前で、見えない柵にぶつかったように止まった。


ダッタは札から視線を上げた。


棚の下段、そのさらに奥。部品箱の影に、布の端が見えていた。作業着の袖のようだった。小さい。大人の腕は通らない。埃をかぶっているのに、折り目だけは妙にはっきりしている。


「これ、整備士さんの」


「それは触らないで」


今度ははっきりした。


ギータの喉が動く。言い直そうとして、言葉が出ない。営業用の声も、整備士の声も、そこには残っていなかった。


厚い布の向こうから、かすかな音がする。誰かが遠くで工具箱を落としたような音。いや、違う。もっと奥からだった。窓の外ではない。部屋の壁の中、棚の裏、帳面の閉じたページの向こう。


「見るだけなら大丈夫だろ」


ギータが息をのんだ。


「やめて」


敬語が消えた。


それでも、ダッタの手は止まりきらなかった。持ち出すつもりはなかった。ただ、布の端を少し引いて、何なのか確かめるだけ。ギータが何をそんなに怖がっているのか、少し見れば分かるかもしれない。


指先が、小さな作業着の袖に触れた。


布は動かなかった。


代わりに、部屋の奥で、かちり、と音がした。


ダッタは手を引いた。


「……え?」


ギータの顔から、色が消えていた。


「見ないでください」


声が小さすぎて、最初は聞き取れなかった。


「見ないでください」


奥の壁に、小さな扉があった。


さっきまで、そこにはなかった。少なくともダッタは見ていない。工具棚と帳面と部品箱だけの部屋だったはずだ。けれど今、壁の下の方に、子どもが通るくらいの小さな扉がある。


扉の隙間から、黒い線が伸びていた。


床を汚す線ではない。影でもない。帳面の上にインクを落としたときのような、じわじわ広がる黒だった。足元の板目をなぞり、落ちた札の端に触れ、そこで止まる。


ギータは一歩後ずさった。


その足が、ギータ自身の意思より少しだけ大きく滑ったように見えた。


「整備士さん?」


「見ないでください」


扉が、少しだけ開いた。


中から、冷たい空気が流れた。扉の向こうには、同じ部屋があるように見えた。けれど棚は倒れ、部品箱はひっくり返り、札は床に散っている。帳面のページが何枚も破れて、床に貼りついていた。


その奥に、小さな作業着の影が落ちていた。


人影なのか、服だけなのか分からない。見ようとした瞬間、音が水の中から聞こえるように歪んだ。誰かの声。高い声。低い声。言葉にはならない。なのに、責めていることだけは分かった。


ギータが帳面を抱える腕に力を込めた。


「今の、何だ」


ダッタは一歩近づいた。


「見ないでください」


「でも、何か倒れて」


「あなたには関係ありません」


ギータの声は冷たかった。冷たいというより、閉じていた。扉のように。窓の布のように。


「関係ないって、でもここは」


「来ないで」


短い言葉だった。


ダッタは止まった。


ギータはダッタだけを見ていた。扉を見ていない。自分の足元も見ていない。だから気づいていないのだと、ダッタには分かった。


黒い線が、ギータの靴の後ろに届いていた。


影が、床から少しだけ浮いた。細い指のように見えた。指ではない。けれど何かが、ギータのかかとをつかんでいた。


「整備士さん、待って」


呼びかけたとき、ギータの体が奥へ引かれた。


ギータは逃げようとしている顔ではなかった。隠そうとしている顔でもなかった。ただ、見られたくないものの前に、薄い板一枚で立っている顔だった。その板ごと奥へ持っていかれているのに、彼はまだダッタの目を遮ろうとしていた。


「見ないで」


声が割れた。


ダッタが手を伸ばすと、足元の床板が一枚沈んだ。何も壊れていないのに、部屋全体が「ここまで」と言った気がした。


ギータの背中が、扉の向こうへ吸い込まれる。


その直前、壁に掛けられた工具が、いっせいに鳴った。


崩れる音ではなかった。


奥の扉が閉まる前の、硬い警告音だった。


扉が閉じる。


音が止まる。


ダッタだけが、整いすぎた部屋に残された。

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