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第3話 ヴァット整備工房

工房の中は思ったより明るかった。工具は大きさ順に掛けられ、部品箱には手書きの札が貼られている。窓は厚い布で半分だけ閉じられ、外の風は細くしか入ってこない。


「いらっしゃいませ。ヴァット整備工房です」


机の向こうで、ギータ・ヴァットが顔を上げた。声は柔らかい。笑顔もある。ただ、その笑顔は、工具棚の札みたいに決まった場所から動かなかった。


「緊急点検ですか」


「ああ。これ、今日中に飛ばしたいんだ」


ダッタは炉心部品を作業台に置いた。鈍い音が、整った部屋の中で大きく転がる。


ギータの笑顔が、ほんの少しだけ薄くなった。


「緊急なのは分かります。ただ、本日の整備枠は埋まっています。いま預かる場合、確認は早くて明日の午後です」


「明日じゃ遅い」


「では、状況だけ先に確認します。事故時の高度は?」


「高かった」


「数値で分かりますか」


「分からない。初飛行だったんだ。風も来てて、みんなに見えるかなって思って、それで木が前に来て」


「木は来ません。船が向かったんです」


言い方は丁寧だった。けれど、ペン先が帳面に触れる音が少し硬い。


「最後に見た炉圧は」


「普通」


「普通、という単位はありません」


「じゃあ、悪くはなかった。だから直せば飛べる。な?」


ギータはペンを止めた。


「記録できることがありません」


「壊れたって書けばいいだろ」


「壊れた、は結果です。修理に必要なのは、その前です」


ダッタの顔が熱くなった。見られている気がした。何も見ていなかったことまで、見られている気がした。


「整備士さん、こっちは急いでるんだよ。少し見れば分かるだろ。壊れてるんだから」


ギータは炉心部品を布で包み直した。丁寧な動きなのに、扉を閉められたように見えた。


「壊れているからこそ、少しでは開けられません。今日はお引き取りください。事故状況を整理してから、もう一度お越しください」


「本気で困ってるんだ」


「本気かどうかでは、炉心は開けられません」


扉は開いたままだった。けれど、ダッタは追い出されたのだと分かった。



外に出ると、森の匂いが急に濃くなった。


「なんだよ、あれ」


飛べば誰かが見ると思っていた。墜ちたら、誰かがすぐ直してくれると思っていた。どちらも、空に向かって投げた石みたいに落ちてきた。


ダッタは町の整備通りを回った。


一軒目の工房では、男が予定表をめくった。男の目が、炉心からダッタの手元へ移る。次に言うことが、分かった気がした。


「今日は無理だな。三日後なら見るだけ見る」


ほら、と思った。こういうとき、ダッタには少し先が見える。相手の眉の下がり方、声を出す前の息、予定表を閉じる指。そこから、次の言葉が先に浮かぶ。


二軒目では「記録なしは受けられません」と言われた。三軒目では「急ぐなら丸ごと買い替えた方が早い」と笑われた。


ダッタは店を出たあと、炉心部品を抱える腕に力を込めた。


見えている。自分には、少し先が見えている。


それなのに、何も変えられない。


どの店でも、最後は同じだった。予定がない。記録がない。原因が分からない。今日中は無理。言葉だけが違って、着く場所は同じだった。


今日中に飛ばしたかった。


飛べば、墜ちた自分を上書きできる気がした。誰かが見上げてくれれば、失敗したやつではなく、また飛んだやつになれる気がした。


それが言えないから、ダッタは「急いでる」とだけ言い続けていた。



夕方前、ダッタはもう一度ヴァット整備工房へ戻った。


扉に手をかけたところで、中から別の客の声が聞こえた。


「ヴァットさん、右の推進翼なんだけど。旋回のとき、二つ目の標識を越えたあたりで音が軽くなった」


ギータの声は、昼より柔らかかった。


「空気が抜ける感じですね。前回の張り具合から見ます。記録を残してくれて助かります」


ダッタは扉の前で止まった。


ああ言えばよかったのか、と思った。


ギータが欲しかったのは、難しい言葉ではなかった。音。場所。いつからおかしかったか。自分が見ていたものだった。


でも、自分は何を見ていた。


計器よりも、下の屋根を見ていた。炉の音よりも、誰かの歓声を想像していた。


「……左だった」


墜ちる直前、左側で嫌な震えがあった。低く、腹の底で鳴るような音。焦げた匂いも、あったかもしれない。


客が出ていき、ギータが見送りのために一歩外へ出た。ダッタを見つけると、営業用の笑顔が戻る。その笑顔は、昼より浅かった。


「まだ、何か」


「もう一回、いいか。整備士さん」


ギータの眉が、少しだけ動いた。


「今日の整備枠は埋まっています。今週も、緊急枠はありません」


「分かってる。でも、さっきよりは言える」


ギータはしばらくダッタを見た。断るための言葉を探している顔だった。けれど、扉を少しだけ開けたままにした。


「五分だけです」



二度目に座った作業台の前で、ダッタは炉心部品をそっと置いた。ギータは帳面を開いたが、ペン先を置く前に言った。


「先に言っておきます。今日中の修理はできません。今週中の着手も約束できません」


「それでも、見てほしい」


「見ることと、直すことは違います」


ダッタはうなずいた。うなずいたつもりだった。


「高度は正確には分からない。でも、港の標識塔より少し上だった」


「標識塔は三十メル前後です。続けてください」


ペン先が動いた。それだけで、ダッタの胸に変な力が入った。少しだけ認められた気がした。


「左側から低い音がした。腹に響くみたいな。焦げた匂いもしたと思う。油か、線かは分からない」


「分からない、で構いません。分けて言えています」


ギータの声に、ほんのわずかな温度が戻った。ここで答えれば、何かが動くかもしれない。けれど、すぐに別の焦りが胸を叩いた。今日じゃなきゃ駄目だ。今日飛べなければ、墜ちた自分のまま夜になる。


「それで、左が震えて、でもいけると思った。俺なら立て直せるって」


「そのとき、炉圧と警告灯は見ましたか」


「……見てない。たぶん警告灯はついてた。でも、赤だったか黄色だったかは」


ギータのペンが止まった。


止まっただけなのに、ダッタには次が見えた気がした。帳面が閉じる。そして、また断られる。


「そこが重要です」


「分かってるよ。でも初飛行だったんだ。全部見られるわけないだろ」


声が強くなった。恥ずかしさは、熱した針金みたいに曲がらない。


「記録がない、見てない、分かってないって。そんなの俺が一番分かってる」


「分かっていることと、見たことを分けてください」


「だから、それができたら苦労してないって言ってるんだよ!」


作業場の空気が硬くなった。


ギータの表情から、客に向ける柔らかさが消えた。怒りというより、せっかく戻ってきた相手がまた同じ場所で転ぶのを見たような顔だった。


「本日は、ここまでにします」


「また追い出すのか」


「このまま続けると、あなたは怒ります。私は急ぎます。どちらも修理に向いていません」


「急ぐ? 整備士さんが?」


ギータの指が帳面の端を押さえた。白くなるほど強く。


「急がないために、確認しているんです」


部屋の奥で、掛けられた工具がかすかに鳴った。触れていないのに、細い金属同士が歯を鳴らすような音を立てる。


ダッタは息を止めた。まただ、と思った。少し先が見える。そう思っていた。相手が何を言うか、どんな顔で断るか、このまま自分がどこへ落ちていくか。


けれど今、見えかけたものは言葉ではなかった。


閉じた窓の布が、内側から風を受けたように震えた。外は無風のはずだった。布地に、棚のような、格子のような、どこまでも続く狭い部屋の影が浮かぶ。


これは未来じゃない。そう思った瞬間、胸の奥に冷たい手が差し込まれたようだった。


「俺は、助けてほしいだけなんだ」


「助けてほしい人は、相手の手順を壊しません」


「そんなに確認してたら、何も始まらないだろ」


ギータの目が、静かに伏せられる。


「軽く言わないでください。そう言う人は、崩れたあとに拾う部品の数を知らない」


閉じた窓の向こうから、かちり、かちり、と規則正しい音がした。工具ではない。もっと大きなものが、同じ場所で何度も踏みとどまっているような音だった。


「整備士さん」


呼びかけた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。


ギータは目を伏せたまま、閉じた窓の方を見ない。


「確認してからじゃないと、開けられません」


窓の布が、もう一度震えた。


その向こうにあるはずのない暗い部屋が、ダッタを静かに呼んでいた。

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