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第2話 墜ちた名前札

最初に戻ってきたのは、息だった。


喉の奥でひゅっと細い音がして、ダッタは自分が息を止めていたことに気づいた。肺が痛い。胸の内側を、折れた枝でこすられているみたいだった。次に心臓の音が来た。速い。速すぎる。船体を叩く誰かの拳みたいに、肋骨の内側で暴れている。


何が起きた。


そう思ったのに、頭は答えを出さなかった。


右の頬が熱い。触ると指に泥と血がついた。袖は裂け、肘のあたりから細い痛みが遅れて上がってくる。膝は笑っているみたいに震えていた。口の中には鉄の味がした。歯を噛みしめると、じゃり、と砂の音がした。


飛行船は、木々のあいだで腹を見せていた。


ついさっきまで空を切っていた船体が、いまは湿った土に半分沈んでいる。折れた枝が甲板に散り、裂けた外殻のすきまから白い煙が細く抜けていた。推進炉は黙っている。空を押し返していた音が消えると、森はやけに広かった。


その広さが、見物席みたいに思えた。


ダッタは手をついて起き上がろうとした。腕が震えて、うまく力が入らない。もう少しずれていたら。枝が胸ではなく首に当たっていたら。炉心が燃え残っていたら。


死んでいたかもしれない。


その考えが形になる前に、ダッタは奥歯を噛んだ。


「……まだ、終わってない」


声はかすれていた。けれど、口に出すと、少しだけ本当になった気がした。


耳の奥には、まだ歓声が残っている。実際には誰も叫んでいない。けれど、飛び上がった瞬間、彼には聞こえた気がした。すごいな。あれがダッタの船か。そんな声が、屋根の上や通りの端から立ちのぼる未来が見えた気がした。


それが今は、枝の折れる音に変わっていた。


船体の側面には、真新しい塗装が剥がれている。昨日まで光っていた名前の札も、泥をかぶって読みにくくなっていた。ダッタはそれを見た瞬間、自分の胸にも同じような傷がついた気がした。


名前が汚れた。


そう思ってしまったことが、何より嫌だった。


ダッタは甲板へよじ登り、炉心室の蓋を開けた。熱はない。あるはずの震えもない。推進炉は冷えた石みたいに沈んでいた。


左側の固定具が歪んでいる。導線の一本が焦げ、油の匂いに混じって、甘いような嫌な匂いがした。墜ちる直前、左から低い音がした。腹の底で鳴るような音。警告灯も、たぶん光っていた。


たぶん。


その曖昧さが、胸を小さく刺した。


計器は見ていた。見ていたはずだった。でも本当は、下の屋根を見ていた。誰かが見上げていないか、探していた。初飛行で少し高く上がっただけなのに、世界が自分を見てくれる気がした。


だから、落ちた。


そう考えかけて、ダッタは蓋を乱暴に閉めた。


「違う。まだ直せる」


直せばいい。今日中にもう一度飛べばいい。そうすれば、これは失敗ではなく、ちょっとした故障になる。誰かに墜落を知られる前に、もう一度空へ戻ればいい。見られるなら、壊れた姿ではなく、飛んでいる姿で見られたい。


そのとき、森の向こうで鳥が飛び立った。


羽音が、人のざわめきに聞こえた。


落ちたんだって。


見た? あの新しい船。


調子に乗ってたから。


見せびらかしてたんだろ。


やっぱり無理だったんだ。


声はまだどこにもない。けれど、ダッタにはその場面が見えた。整備通りの端で、誰かが壊れた船の噂をする。通りすがりの人が肩越しにこちらを見る。子どもが空を指さす代わりに、森の方を指さす。


あいつ、失敗したんだ。


その言葉が、まだ起きてもいない未来から先に届いた。


それは予知のようだった。人が言う前の言葉。笑う前の口元。目を逸らす前のまばたき。ダッタには、そういう少し先が見えることがあった。


けれど今見えた未来は、あまりにも自分の不安に似ていた。


壊れた飛行船の外殻に、町の視線が貼りついていく。泥の上に落ちた名前の札へ、見えない指が何枚も紙を重ねる。


失敗。


見栄っ張り。


やっぱり無理。


貼られてもいない札が、もう剥がせないものみたいに見えた。


違う。


そう言おうとした。


でも、胸の奥から別の声がした。


本当は、見てほしかっただけだろ。


ダッタは息を止めた。


助けたいとか、飛びたいとか、そんな言葉で包んでいただけだろ。


「違う」


声に出したつもりだった。けれど、喉は動かなかった。


船じゃなくて、自分を直したいんだろ。


その言葉で、胸の奥の細い芯が、乾いた枝みたいに音を立てた気がした。


ぽきり。


本当に音がしたわけではない。けれど、ダッタは一瞬、膝から力が抜けた。甲板に手をつく。泥と血の混じった指が、剥がれた塗装の上に跡を残した。


誰もまだ何も言っていない。


それなのに、もう十分に言われた気がした。


「見られる前に直せばいい」


ダッタは使えそうな炉心部品を外し、布で包んだ。工具箱の中身は半分ほど散らばっていたが、拾っている時間が惜しかった。ひとつ拾うたびに、墜ちた事実まで拾わされる気がした。


森を抜けると、町の音が近づいてきた。荷車の車輪。遠くの鐘。誰かの笑い声。そのどれもが、自分の失敗を知っている音に聞こえる。


道の向こうで二人組が話していた。まだこちらを見ていない。なのに、ダッタには次の瞬間が見えた気がした。片方が振り向く。もう片方が眉を上げる。視線が、腕の中の炉心部品へ落ちる。


落ちた船のやつだ。


違う。まだ誰も言っていない。


けれど、言われる前にもう痛かった。


ダッタは足を速めた。炉心部品を抱える腕に力が入る。布の下の金属は冷たい。まるで、さっきまで空を飛んでいたことを忘れたみたいだった。


整備通りに入ると、金属の看板が夕方前の光を薄く跳ね返していた。看板の一枚一枚が、裁判所の札みたいに見える。ここで直せなければ、壊れた船は壊れた船のまま町に知られる。墜ちた自分も、墜ちたまま名前を覚えられる。


最初に目に入った看板へ向かった。


ヴァット整備工房。小型炉心、推進翼、航行計器。点検・記録・修理。


名前は聞いたことがあった。仕事が細かい。記録にうるさい。予定を崩さない。急ぎの客には向かない。そう言われている店だった。


普通なら、急ぎのときに選ぶ店ではないのだろう。


でも、もう看板を探し直す時間すら惜しかった。今日という時間だけが、燃え残りの芯みたいに細く赤かった。


今日中に飛ばしたい。


そう思った瞬間、彼は自分の言葉が少しずれていることに気づいた。飛ばしたいのは船だけではない。墜ちた自分を、今日のうちにどこかへ飛ばしてしまいたかった。


もう一度空へ上がれば、まだ間に合う。拍手をもらう予定だった場所に、嘲笑が座る前なら。名前の上に失敗の札が貼られる前なら。


それでも、胸の奥のどこかでは分かっていた。


船体の傷は、飛べば消えるものではない。


でも、それを認めるには、まだ怖すぎた。


ダッタは冷えた炉心部品を抱え、ヴァット整備工房の扉を押した。

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