第一章 第1話 名前札の角度を三度直した
ダッタは、名前札の角度を三度直した。
小型飛行船の船首につけた真鍮の札は、朝の光を受けてまだ新しく見えた。船体は古い型で、木枠には細かな傷があり、布翼の端には何度も縫い直された跡がある。それでも、ダッタにとっては新しい船だった。自分の手で磨き、自分の名前を掲げ、自分の操縦で空へ上がる船だった。
札には、少し背伸びした文字で、ダッタ・ブゴーマ、と彫られている。
通りから見上げたとき、光がうまく当たる角度がいい。誰かが「あれ、誰の船だ」と言い、別の誰かが名前を読む。そんな場面が、まだ起きてもいないのに胸の奥で先にふくらんだ。
足元では、整備帳が開いたまま風にめくられていた。炉心点検、空欄。風向き記録、空欄。推進翼の固定確認、半分だけ印。
ダッタは鉛筆を手に取った。けれど、通りの向こうで鐘が鳴り、顔を上げてしまう。朝の整備通りはもう動き始めていた。店先には炉心点検済みの札が下がり、屋根の上では郵便船が低く通り抜ける。赤い布翼が朝日の中を横切ると、子どもたちがいっせいに空を指さした。
「赤帆だ。今日も速い」
飛べる者の名前は、町に残る。
誰かがそう言ったわけではない。ただ、子どもが空を見上げる顔や、店主が風向き札を確かめる手つきが、ダッタにはそう言っているように聞こえた。
「初飛行なら、風向きだけでも書いとけよ」
隣の係留柱で工具箱を閉めていた整備人が言った。
「分かってる。戻ってからちゃんと書く」
「戻ってからじゃ、何が起きたか忘れるぞ」
「忘れないって。今日のことは、たぶん一生忘れない」
整備人は、名前札、布翼、開いた整備帳を順に見た。
「高く上がりすぎるなよ。午前は穏やかでも、午後前に横風が入る」
「午前のうちに戻る」
「戻るためにも、記録だ」
「はいはい」
言ってから、少しだけ胸がざらついた。けれどダッタは整備帳を閉じた。白い空欄が目に残る。何も書かれていない、誰も見ていない窓みたいだった。
それより、名前札の方が大事に思えた。
係留綱に手をかける前に、ダッタはもう一度通りを見た。食堂の女主人が空を見上げ、部品屋の若い店員が航路札を入れ替えている。赤帆の郵便船はもう見えないのに、子どもたちはまだ屋根の上を見ていた。
そのうち一人が、ダッタの船に気づいた。
「あれ、新しい船?」
声はただの好奇心だった。けれどダッタの胸には、小さな火が灯った。次に、すごい、と言う。そんな気がした。子どもの目が丸くなり、口が少し開く。その先に続く言葉まで、ダッタには見えた気がした。
「ちょっと古くない?」
別の子どもが言った。
ダッタは一瞬、返す言葉を失った。けれど、すぐに操縦席の縁を叩いてみせた。
「古い型の方が、空を知ってるんだよ」
子どもたちは顔を見合わせた。笑ったのか、感心したのか、分からない。ダッタは分からない方を選ばなかった。
通りの人が足を止める。
「今日、飛ばすのかい」
「うん。初飛行」
「なら、風には気をつけな。上の方は見た目より荒れる」
「大丈夫。ちゃんと飛ぶところ、見てて」
その人は何か言いかけて、苦笑だけを置いて通り過ぎた。ダッタには、その苦笑が心配ではなく期待に見えた。あるいは、期待に見たかった。
操縦席に座ると、町の音が少し遠くなった。計器盤には、炉心温度、浮力圧、風受け角、推進翼の傾きを示す針が並んでいる。真鍮の縁は磨いたばかりで、ダッタの顔がぼんやり映った。少し硬い顔をしている。彼は口角を上げてみた。
「大丈夫」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
炉心の起動輪を回す。低い音が、船の腹からゆっくり目を覚ました。木枠が震え、布翼の張り糸が一本ずつ息を吸うように鳴る。ダッタは操縦桿を握った。
係留綱を外す合図を出すと、船体がほんの少し浮いた。
地面が離れる。
石畳が遠くなり、係留柱の頭が下がる。整備人の帽子、食堂の屋根、部品屋の看板、航路札を持った店員の腕。町の細かなものが、ひとつずつ下へ流れていく。
「上がった」
声がこぼれた。
船は思っていたより軽かった。いや、軽いのは船ではなく、ダッタの胸の方かもしれなかった。操縦桿を少し倒すと、船首が朝の空へ向く。布翼が風を受け、古い船体がきしみながらも応えた。
「上がったぞ」
今度は、誰かに聞こえるように言った。
町の屋根が下に広がる。窓がいくつも光る。その光が、ダッタには拍手を始める前の手のひらみたいに見えた。
見てるか。ちゃんと、飛んでる。
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。通りの子どもたちか。さっきの整備人か。まだ自分を知らない町の誰かか。その全部だった。
下で誰かが顔を上げた。ダッタはその動きを見逃さなかった。
ほら。次に、手を振る。
そうなる気がした。相手の肩が少し動き、口が開く。ダッタは操縦桿を握る手に力を入れ、船首を少しだけ通り側へ向けた。
「おい、低くないか?」
声は風に切られて届いた。
ダッタは聞こえなかったふりをした。低い、ではなく、近い。近いからよく見える。よく見えるから、覚えてもらえる。
「大丈夫。これくらいなら、まだいける」
炉心の音は安定している。計器の針も大きくは揺れていない。風受け角だけが、少し右へ寄っている。さっき整備人が言っていた横風かもしれない。
ダッタは針を見た。
見た。
けれど、下の通りで子どもが走り出したのも見てしまった。自分の船を追っているように見えた。実際には、荷車を避けて走っただけかもしれない。それでもダッタには、自分の影を追っているように思えた。
もう少しだけ高く。通りの向こうまで見える高さへ。
船首を上げると、町の端が開いた。その向こうに細い川と、緑の濃い森が見えた。空は広い。広すぎて、胸の中の足りないところまで光で満たされる気がした。
計器の針が、小さく跳ねた。
ちり、と警告灯が赤く瞬いた。
炉心温度は高くない。浮力圧もまだ範囲内。風受け角だけが、また少しずれた。警告音は鳴っていない。ただ、船体の奥で低い音がした。腹の底で誰かが咳をしたような音。
「分かってる。ちょっとだけだ」
彼は操縦桿を戻しかけた。
そのとき、船体が横から押された。
布翼が大きく膨らみ、片側だけが引っ張られる。床が傾いた。町へ戻るはずの線が、細い川の向こうへずれていく。森の緑が、さっきより近い。
部品屋の二階窓が開いた。若い店員が顔を出し、こちらを見上げる。
今、見たよな。
ダッタの中で、次の場面が先に浮かんだ。店員が誰かを呼ぶ。通りに顔が増える。誰かが「あれ、ダッタの船だ」と言う。
「戻れ、風が変わった!」
下から声が飛んだ。
歓声ではなかった。けれど、風が声を裂いたせいで、最初の一音だけが伸びて聞こえた。彼の頭は、都合のいい形を先に選んだ。おお、と驚く声。あれを見ろ、と誰かを呼ぶ声。
警告灯が、もう一度赤く瞬いた。
今度は消えなかった。
整備通りの屋根が斜めに流れ、川の光が視界の端へ滑る。船首は町ではなく、森の方を向いていた。
まずい。
その言葉だけが、ようやく正しい形で胸に落ちた。
彼は操縦桿を引いた。反応が遅い。推進炉の音が一段低く沈み、船の腹で何かが空回りする。風受け角の針が、細い魚の骨みたいに震えている。
「違う、今のは」
船首が予定の航路から外れていく。川の細い光を越え、森が近づく。梢が、ただの緑の帯ではなく、一本一本の枝として見え始める。
「戻る。戻せる」
布翼の張り糸が高く鳴った。船体がきしむ。計器の赤が、朝の光の中で小さく燃えている。拍手の赤ではない。止まれの赤だ。そんなことは、もう分かっていた。
もう町の顔は見えなかった。
それでも、見られている感じだけが背中に残っていた。さっきの子どもも、店員も、整備人も、まだそこにいる気がした。称賛ではない。驚きでも、憧れでもない。落ちていくものを見る沈黙だけが、風の中に貼りついていた。
「見ないでくれ」
声は、風にほどけた。
梢が窓いっぱいに広がった。
その緑が、拍手の代わりにダッタへ倒れてくる。
何かが折れる音がした。




