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8 布は戻されない


ボイロはさっきの丸板を見ていた。説明しそうになって、唇の内側を噛む。


「今、言えるのは擦れがあることだけです」


小さな声だった。


ギータは頷かず、そのまま余白を残した。


アンは外港空門を見ていた。半分だけ開いた門の隙間から、外の光が入っている。行けないほど閉じてはいない。通れるほど開いてもいない。


「半分開いていると、進めそうに見えますね」


その声は、誰に向けたものでもなかった。


「でも、門は門なんですね」


それだけだった。


止めた理由を決めない。


行けるはずだとも言わない。


ただ、半分開いたものが、通れることと同じではないと置いた。


キールは船主の顔ではなく、手を見ていた。


「ロウさん」


呼び方は静かだった。


返事はない。


「箱、動いてません」


親指が止まった。


キールは続けなかった。


動いていない箱を押さえ続けている、とも言わない。大丈夫です、とも言わない。ただ、見えていることだけを伝えた。


工具箱から指が離れた。


風見羽根がまた揺れる。


今度は、すぐには押さえなかった。


船体が低空航路の中でゆっくり横へ流されかける。舵が少し戻された。大きな揺れではない。風が布翼の端を撫で、荷の縄が一度だけ鳴った。


「戻りますか」


操作台の係員が言った。


問いの形をしていた。


けれど、門が半分で止まっている以上、選べる幅は狭かった。


船主は外港の光を見た。


それから、布のない船名板へ目を移した。


「また、止まったな」


小さな声だった。


外港空門へ向けた声でも、係員へ向けた声でもなかった。工具箱へも、船名板へも、届くか届かないかの高さだった。


誰も、すぐには答えなかった。


風が外から一枚入る。


通過標の白い面は、変わらない。


舵が内港側へ切られた。


船は、ゆっくり向きを戻す。


船が戻り始めても、船名板の布は掛けられなかった。理由欄の文字も、まだ出航板に残っている。届けるものがあるため。その文字は、門の途中で消えなかった。


ようやくペンを動かした。


外港空門、半開で停止。


通過標、白のまま。


係員発言、標が変わっていません。


係員発言、確認印が戻っていないものは、通せません。


船、内港へ戻る。


そこまで書いて、手が止まる。


怒りはまだ残っていた。


紙の端が、指の汗で少し波打っている。


なぜ、と書きたかった。


誰が、と書きたかった。


でも、今ここで書けるのは、止まったことと、残ったものだけだった。


最後に、一行だけ足した。


船名板の布、戻されず。


船は、低空航路を戻っていく。


船室の端で、小さな工具箱が揺れる。


留め金の風見羽根は、ロウの指から離れたまま、細く震えていた。


翌朝、港の鐘は同じ時刻に鳴った。


昨日も鳴った音だった。


低く、一度。少し間を置いて、もう一度。鐘楼の金属が朝の湿った空気を震わせ、荷捌き場の屋根の下で短く残る。


ダッタは、その二つ目の音が消える前に出航板の前へ着いた。


紙片は、夜の湿気を吸って少し反っている。糊の端が白く浮き、古い時刻の上に重ねられた紙の角だけが、風に細かく鳴った。


昨日の札は、残っていた。


船名欄には、もう布の影はない。名前は、昨日と同じ場所に残っている。


船主、ロウ・ハルバ。


理由欄、届けるものがあるため。


そこまでは残っている。


ダッタは、そこにある文字を声に出さなかった。


出せば、何かが確かになりすぎる気がした。昨日、外港空門の途中で止まった文字が、今朝も紙の上に残っている。それだけで十分なはずだった。


ギータが少し遅れて来た。手には昨日の写しと、新しい紙がある。走ってはいない。けれど、紙を押さえる指がいつもより少し強い。


「残っていますか」


「残ってる」


ダッタは短く答えた。


ギータは頷き、出航板の下段へ視線を移した。


昨日までは見ていなかった場所だった。


出航札の下に、細い追記欄が作られている。夜のうちに貼られたのか、紙の色だけが少し新しい。端に小さな印があり、その横に状態欄があった。


状態。


外港未通過。


ダッタは、その五文字を見た。


未出航ではない。


出きったわけでもない。


外港未通過。


昨日、船は桟橋を離れた。船名板の布は外れた。理由欄には、ロウの字が入った。外港空門は半分まで開いた。


それでも、ここには外港未通過と書かれている。


ギータの筆先が紙に触れた。


「状態、外港未通過」


声は小さい。


続けて、出航板の追記欄の下へ目を落とす。


そこに、もう一つ欄があった。


外港未通過理由。


その右側は、白い。


ダッタは瞬きした。


白さは、昨日までの理由欄とよく似ていた。


ただ、今度はロウの欄ではない。


ロウが書ける場所ではない。


船主の手が届く欄ではない。


ギータの筆先が止まった。


「外港未通過理由欄」


そこで一度、息を吸う。


「空欄」


紙の上に、そのまま写される。


空欄。


ダッタは、喉の奥が少し乾くのを感じた。


理由は、もう一つ書かれている。


届けるものがあるため。


その下に、空欄。


昨日、ロウは自分の理由を書いた。ダッタは先に言わなかった。ペンだけを渡した。船名板の布は外され、船は外港まで進んだ。


なのに、止めた側の欄は白い。


白いまま、朝の板に貼られている。


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