表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
62/64

7 外港で止まる


船は、急には進まなかった。


舳先が外港の方を向いてからも、船体はすぐには高度を取らなかった。係留を外された分だけ揺れ、荷の重さを確かめるように浮力圧を落とし、また少し持ち上がる。


船名板の文字は見えている。布は戻されていない。


桟橋を歩きながら、その文字を何度も見た。見えるたびに、胸の奥が少しだけ先へ行きたがる。


外港まで進む。


そこまでは、もう書いていいのかもしれない。


でも、ペンはまだ記録板の上で止まっていた。


船が一つ動いただけで、港全体が動いたように見せたくなる。自分が見つけた空欄が、何かを変えたのだと思いたくなる。


係留塔の影が、船体の下でゆっくりずれている。


そのずれを見てから、まだ何も書かなかった。


外港へ向かう低空航路は、荷捌き場より広かった。両側に係留塔が間を空けて並び、その上に通過標の柱が立っている。風向きの旗、時刻板、白い丸板。遠くから点に見えたものが、近づくにつれて、白いままの面として見えてきた。


ボイロが先に足を止めた。


「標、変わってません」


声は大きくない。


けれど、港のざわめきよりはっきり聞こえた。


「白のまま?」


「はい」


ボイロは観測紙を出さない。代わりに、通過標と風向きの旗を交互に見た。


「風は変わっていません。少なくとも、急に悪くなったようには見えません」


そこまで言って、唇を閉じる。


出られる、とは言わない。


悪くない、とも言い切らない。


見えているものだけを、見えている幅で置いている。


ギータはその横で紙を開いた。歩きながら引いた線は、少し斜めになっている。それでも欄は分けられていた。


「外港通過標、白」


筆先が止まり、次の行へ移る。


「風、急変なし。観測者、ボイロ」


ボイロが少しだけ顔を上げた。


「観測者、まで要りますか」


「要ります」


紙から目を離さずに答えた。


「誰が見たかを混ぜないためです」


ボイロは黙って、もう一度通過標を見た。


船は低空航路の中央へ出ていた。


船主は舵の横に立っている。大きな動きはない。布翼を急に張るわけでも、声を上げるわけでもない。工具箱は船室の端に置かれたままだった。船が風を受けるたび、留め金の風見羽根が細く震える。


その揺れが、港のざわめきより先に目へ入った。


外港空門の前に、二人の係員がいた。


一人は門の横の操作台に手を置いている。もう一人は通過標の柱の下で、出航札の写しを持っていた。どちらも、船へ向かって怒鳴らない。


操作台の係員が、片手を上げた。


門が動き始める。


古い金具が、ゆっくり鳴った。


外港空門は左右へ開く。低空航路の出口が少しずつ広がり、その先に港の外の光が見えた。内港の屋根より色の薄い空。風がそこから一枚だけ入ってきて、記録紙の端を持ち上げた。


半分ほど開いたところで、音が止まった。


金具の鳴りも、風を切る低い音も、そこで止まる。


門は、開ききらないまま止まった。


通過標の白い丸板が、門の風で少しだけ裏返りかけた。縁に、灰色の細い擦れがある。黒札の黒ではない。けれど、昨日ギータが見つけた確認印の薄い縁と、同じように片側だけが欠けていた。


ボイロがそれを見て、観測紙を開きかける。


開く前に、指が止まった。


記録板から顔を上げた。


船主は怒鳴らなかった。


舵の横で、外港空門を見ている。眉も口も、大きくは動いていない。ただ、右手が船室の方へ伸び、工具箱の位置を少し直した。


箱はずれていなかった。


それでも布の輪を一度押さえ、箱の角を壁へ寄せる。留め金の風見羽根が揺れた。親指が、その羽根に触れる。


揺れが止まる。


通過標の下にいた係員が、紙を見た。


「標が変わっていません」


声は丁寧だった。


誰かを責める調子ではない。読み上げるようで、けれど紙だけを読んでいるわけでもない。そう言う以外の置き場所を持たない声だった。


船主は係員を見た。


「理由欄は書いた」


低い声だった。


「確認しています」


係員はすぐに答えた。


「理由欄、届けるものがあるため」


その言葉が、外港空門の途中で一度止まる。


記録板を握った。


書かれた理由は、そこにある。


なのに、門は半分で止まっている。


別の係員が、操作台の前から少し身を乗り出した。


「確認印が戻っていないものは、通せません」


声は、さっきの係員とよく似ていた。


年齢も、背の高さも、持っている紙も違う。なのに、言葉の終わり方だけが同じ場所へ落ちる。


喉が熱くなった。


戻っていないなら、どこにあるんですか。


誰が持っているんですか。


どうして理由を書いたのに、通れないんですか。


三つとも、口のすぐ裏まで来た。


けれど、船主はまだ何も言っていない。


工具箱の留め金に触れた親指だけが、少し強くなっている。


先に怒れば、この止まり方を自分の怒りにしてしまう。


この船が止まった事実を、自分の戦いの場に変えてしまう。


ギータの筆先が紙に触れた。


「外港空門、半開」


書く音が、低空航路の脇で細く鳴る。


「通過標、白」


筆先が少し戻る。


「通過標裏面、灰色の擦れ」


一行空ける。


「理由欄、記入済み」


さらに一行、間を置く。


「確認印、未返却」


そこまで書いて、理由を書かない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ