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6 桟橋を離れる


窓口の職員が、出航札の前まで来た。年配の女だった。昨日も同じ窓口にいた人だ。手には印箱ではなく、薄い確認札を持っている。


「ロウ・ハルバさん」


船主が顔を上げる。


「理由欄の記入は確認しました。ただ、確認印はまだ戻っておりません」


頷きはなかった。


聞いている、というだけの顔で立っている。


職員は紙を一枚めくった。


「現時点では、通常の出航完了としては扱えません」


言葉は丁寧だった。


「ですが、現時点で新たに止める扱いが出ているわけでもありません」


そこだけ、空気が止まった。


思わず職員を見た。


止めるとは言っていない。


通すとも言っていない。


板の上に、まだ名前のない場所があるようだった。


アンが一歩だけ横へ出た。職員の前に立ちはだかるのではなく、出航札と桟橋の間に立つ。


「それは、止める理由ですか。待つ理由ですか」


言ってから、アンは一度だけ息を止めた。自分で選ばせる問いなのか、自分が答えを欲しがっているだけなのか、まだ測っている顔だった。


職員はすぐには答えなかった。


怒った顔ではない。困った顔でもない。質問の置き場所を探すように、紙と出航札を見比べた。


「確認印が戻っていない、という状態です」


「状態」


アンは繰り返した。


「理由ではなく?」


職員の指が紙の端を押さえた。


「記録上は、未返却です」


同じ言い方だった。


けれど、今度はほんの少しだけ、声の底に人の息があった。紙を読んでいるだけではない。読める場所までしか読めない人の息だった。


それ以上、追わなかった。


「わかりました」


答えを受け取るのではなく、そこまでを書ける場所として受け取る声だった。


ボイロは桟橋の端へ移動していた。風を見ている。布翼の張り、係留縄の揺れ、船体の高さ。観測紙は出していない。目だけが忙しい。


「東の風は、弱くないです」


それから、荷の方を見る。


「荷も、見えている範囲では片側に寄っていません。さっき直した分で、前より揃ってます」


言いかけた。


じゃあ出られる。


ボイロが先に首を振った。


「出られるとは言いません」


声は小さかったが、はっきりしていた。


「風と荷だけなら、今は止めていない。そこまでです」


船主はその言葉を聞いていた。


聞いて、係留縄へ手を伸ばした。


太い縄が係留柱に巻かれている。朝の湿りが残り、繊維の間に細かな砂が挟まっていた。手のひらで一度、砂を払う。


一本目の縄を緩める。


船はすぐには動かない。


二本目へ移る。結び目を解く前に、工具箱を見る。留め金の風見羽根が小さく動いている。押さえない。位置だけを確かめる。


キールが横へ近づきすぎない場所で止まった。


「手伝います」


今度は、こちらではなかった。


船主は少しだけキールを見る。


「結べるか」


「解く方なら」


キールは薄く笑った。相手の顔色を見る笑いではなく、自分の手元を見ている笑いだった。


短く顎を引いた。


キールは余った縄をまとめる。船から降ろすのではなく、踏まれない位置へ置く。湿った縄が桟橋の板に重く落ちた。


手も動きかけた。


手伝いたい。


いや、手伝えばいい。


そう思ったのに、足は一歩で止まった。


この人は今、出ようとしている。


それは、こちらが押したからではない。正しい言葉を見つけたからでもない。白い欄へ、自分の文字を置いたからだ。


この船が出れば、港が動くかもしれない。


その考えが、胸の奥でぱっと明るくなった。明るくなりすぎて、足が一歩出そうになる。


小さな工具箱が視界に入った。さっき閉じられた箱。今は船室の端で、見える向きに置かれている。


この船は、港を動かす証拠ではない。


届けるものを載せた船だ。


記録板を開いた。


今できる手伝いを探す代わりに、見えたことを書く。


船名板の布、外される。


理由欄、記入済み。


確認印、未返却。


新たに止める扱い、確認できず。


ペン先がそこで止まる。


出航、と書きたくなった。


でも、まだ書かない。


船は、縄を解いただけだ。


最後の係留が外された。


船体が桟橋から、指一本ぶん離れる。浮力袋の奥で低い音がし、係留柱の影が少し下へずれた。


港のざわめきがもう一度動く。


窓口の職員は、出航札の前に立ったままだった。止めようとはしない。背中を押すこともしない。ただ、確認札を胸の前で持ち、船が桟橋から離れる距離を見ている。


「通常完了ではありません」


職員は言った。


誰に向けた声でもなく、記録へ向けた声のようだった。


「未返却の確認印が戻り次第、手続きは進められます」


同じ言い方。


けれど、船名板には、もう布がない。


船主は舵の横に立った。


小さな工具箱は、船室の端で揺れた。留め金の風見羽根が、東から来る風に合わせて細く震える。


その揺れを見た。


「ロウさん」


呼んだ。


船主がこちらを見る。


言いたいことは、いくつもあった。


行けます。


止まりません。


きっと届きます。


どれも、先に書いてはいけない言葉だった。


記録板を胸の前に持ち直した。


「船名、見えました」


それだけ言った。


船名板の方へ、少しだけ目が動いた。


「見えるようにした」


短い返事だった。


船体が、もう一度桟橋から離れる。


ボイロが風を見る。ギータが紙を押さえる。キールは余った縄を束ね、アンは職員と出航札の間から一歩下がった。


船の舳先が、外港の方へ向いた。


遠くの通過標は、まだ白い。


その白さは、小さすぎて、ここからはただの点に見えた。


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