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5 届けるものがあるため


自分の中の空欄が動いた。


届けたい。


謝りたい。


遅くなった。


浮かんだ言葉は、どれも自分のものではなかった。


記録板の端を握る。さっき、言い当てたつもりで閉じさせた場所だ。


でも、その欄は船主のものだった。


こちらが書ける場所ではない。


ロウの指が、荷の奥から戻ってきた。


「そこ」


船主が出航札を見た。


理由欄。


白いままの場所。


「まだ書けるか」


喉が鳴った。


書ける。


そう答えたくなった。


届けるため、と言いそうになった。


でも、船主はこちらに理由を聞いていない。


書ける場所が残っているかを聞いたのだ。


記録板の端に挟んでいたペンを外した。


ペン先に、昨日のインクの薄い黒が残っている。指で拭いた。紙の端に小さな跡がついた。


何かを言えば、楽になる。


さっきは、その楽さに手を伸ばした。


今度は言わなかった。


ペンだけを差し出した。


ロウはそれを見た。


すぐには受け取らなかった。


風が通る。船名板の布が一度だけ膨らむ。窓口の方で、誰かが紙を置く音がした。


ペンを取る。


握り慣れた手ではなかった。荷を縛る手、箱を動かす手、留め金を押さえる手。その手が、細いペンを持つと少し大きく見えた。


ギータは紙を押さえた。


「理由欄、空欄」


もう一度、確認するように言った。


頷きはなかった。


ただ、白い欄へペン先を置いた。


最初の一文字が、少し太くなった。力が入りすぎたのだと分かる。次の文字で、線が少し細くなる。


届けるものがあるため。


書き終えても、すぐにはペンが離れなかった。


文字の最後の点に、インクが少しだけ溜まる。


荷の奥で、隠れた留め金が小さく鳴った。


今度は、ロウの手がそこへ戻らなかった。


書かれた文字は、すぐには乾かなかった。


届けるものがあるため。


最後の点に溜まったインクが、紙の白さの上で少し膨らんでいる。ギータはそこへ砂が落ちないよう、紙の端を押さえたまま動かなかった。


窓口の方で、誰かが咳をした。


それから、紙をめくる音がした。


「理由欄、記入確認」


窓口の職員は、声を荒げなかった。驚いたようにも、喜んだようにも聞こえない。いつもの高さで、書かれているものをそのまま読む声だった。


「ただし、確認印は未返却です」


別の職員が、同じ調子で続ける。


「確認印が戻り次第、手続きは進められます」


その言い方は、昨日から何度も聞いたものに似ていた。言葉の角が丸く、誰かを責めない。けれど、どこへ転がしても同じ場所へ戻る石のようでもあった。


出航札を見る。


理由欄は、もう空欄ではない。


それだけで、板の上の紙片が少し重くなった気がした。書かれた文字が、船の荷に混ざったみたいだった。


船主はペンを返した。


受け取ると、ペン先の黒が指に少しついた。拭こうとして、やめる。まだ乾いていない文字の近くで布を動かしたくなかった。


船名板の方へ視線が動いた。


布が掛かっている。端は昨日より少しほどけていた。風が通るたび、板の下で隠された木が軽く鳴る。


船主は桟橋から甲板へ戻った。


急がない。


それでも、さっきまでの積み直しとは違っていた。箱を動かす前に、どこへ置くかを見ていた手が、今は置いた場所を確かめるために動いている。


小さな工具箱は、船室の端へ移された。壁に近い場所。揺れても滑りにくいよう、布の輪で足元を軽く留める。留め金の風見羽根は、外へ向けられていた。


蓋の内側の紙札は、もう見えない。


ミナ・ハルバ。


読んでしまった名前を、もう一度出すことだけはしなかった。


その向きを見た。


見えていていい場所へ、置かれている。


船名板へ手が伸びた。


布の結び目は固くなかった。結んでいた時間が長いせいで、紐の跡だけが木に残っている。指がその跡をなぞり、結び目を一つ解いた。


布が一度、風を含んだ。


船名板の上半分が見える。


東。


次に、風。


布が引き落とされた。


東風の燕。


その文字は大きくはなかった。飾り文字でもない。何度も塗り直された跡があり、燕の字の一部だけ、他より新しい色をしている。


港の音が、ほんの少しずれた。


台車を押していた男が足を止める。積荷を数えていた女が顔を上げる。窓口の内側で、紙束を揃える手が一拍遅れる。


歓声は上がらない。


ただ、隠れていた名前が見えた。


それだけで、桟橋の空気が少し薄くなったように感じた。


キールが船名板を見て、次に工具箱を見た。


「燕」


声は小さかった。


「飛ぶ名前ですね」


返事はなかった。


だが、船名板に布を戻しもしなかった。


ギータは新しい紙に線を引いた。今度は船名欄を空けない。


「船名、東風の燕」


筆先が動く。


「船主、ロウ・ハルバ」


少し間を置く。


「理由欄、届けるものがあるため」


そこまで書いて、窓口の方を見る。


「確認印、未返却」


その一行だけ、少し離して書いた。


混ぜないための距離だった。


窓口の奥で、椅子が引かれる音がした。


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