4 空欄は空欄として写す
しばらく、誰もロウに近づけなかった。
工具箱は荷の奥に入ったままだった。留め金の風見羽根は見えない。見えないのに、さっき閉じた蓋の音だけが、桟橋の板の下に残っている。
それでも、船主は桟橋を離れなかった。荷の前に立ったまま、出航板を見ないようにしている。
出航板の前では、また窓口の印箱が鳴った。
蓋が開く音。紙がずれる音。木の台に印が置かれる音。押されたあと、戻されない沈黙。
ギータは出航札の前に立った。紙を新しく一枚出す。昨日の写し、今朝の写し、その下にもう一つ欄を作る。
線を引く手が、一度だけ止まった。
それでも欄は分けられた。
「ロウ・ハルバ」
船主欄を写す。
「出航時刻、再変更」
筆先が少し下がる。
「確認印、未返却」
そこまで書いて、理由欄の前で止まった。
さっき自分が言った言葉が、喉の奥でまだ乾いていない。
ミナさんに届けるんですか。
当たっていたかもしれない。けれど、当てた瞬間に箱は閉じた。
ギータの筆先が、紙に触れた。
「理由欄、空欄」
声は小さかった。
だが、空欄は空欄として、紙の上に移った。
荷の奥で、ロウの指が動いた。
工具箱のある場所へ向かう。箱は見えない。爪の先が布の端に触れただけで、荷の間の金具が小さく鳴った。
謝りたい。
もう一度、言い直したい。
けれど、ここで謝れば、また自分の痛みを先に置くことになる。
唇を閉じた。
ギータは理由欄から視線を外し、出航札の右下へ目を移した。そこには確認印の跡がある。戻っていない、と言われ続けている印の端。昨日も見たはずの場所だった。
眉が少しだけ寄った。
「印の縁が、さっきと違う」
顔を上げた。
「違う?」
「写しと合いません」
昨日の紙を横に置いた。今日の札と、昨日の写し。その二つを重ねない。少し離して並べる。
「昨日は、右の縁が欠けていました。今は左の縁が薄い」
「印が戻ったんじゃなくて?」
ギータはすぐには答えなかった。
戻ったなら戻ったと書く。いつもの声なら、そう言ったはずだった。
「……今は、縁が違う、とだけ書く」
言い直した声は、少し硬かった。
ボイロが少し前へ出た。観測紙を開きかけ、止める。出航札と印の縁を見てから、風の方へ目を移した。
「風は、待っていません」
言ってから、目を伏せる。
「止めてもいません。少なくとも、風だけなら」
風だけなら、です。
その小さな付け足しは、誰よりも自分に向けているようだった。
ロウは出航板を見なかった。
荷の奥に入れた工具箱の方を見ている。
アンが、荷の影を踏まない位置に立った。
「出たいって言葉は、消えてないと思います」
そこで声が止まる。
言い切ってしまえば、また人の欄に自分の線を引く。アンは唇を押さえ、出航札と荷の間に視線を落とした。
キールは桟橋の柱のそばにいた。正面には立たない。工具箱と出航板の間を見て、声を低くした。
「出たいって言ったの、そっちが先だったよな」
ロウはキールを見た。
「俺が?」
キールの肩が一瞬上がった。さっきの「間に合ってる」が、まだ残っていたのかもしれない。
それでも、言葉は引っ込めなかった。
「荷を動かす前。窓口の方を見た時」
少し間を置く。
「声じゃなくて、手がそう言ってた」
返事はなかった。
長い沈黙が落ちた。
港の音は消えない。窓口の声も、台車の音も、布翼の擦れる音もある。けれど、そのまわりだけ、音が荷の角で止まっているように見えた。
ロウはようやく口を開いた。
「早いって言った」
誰も聞き返さなかった。
「あいつに」
視線は工具箱には向いていない。けれど、親指だけが荷の奥へ残っている。
「俺の娘に。まだ早いって」
そこで一度、声が切れた。
喉の奥に、湿った銅線の匂いが戻ったように、ロウの顔が少し歪んだ。巻きかけの銅線を握ったまま止まった、細い指。言い返さなかった口元。
「そのあと、俺が荷を駄目にした」
短い言葉だった。
木箱の角が、風で少し鳴る。
雨に濡れた部品箱の匂いが、ほんの一瞬だけそこに混じった気がした。
「止めたのは、俺の方だ」
それ以上の説明はなかった。
娘が何を言ったのか。どんな仕事だったのか。荷がどう傷んだのか。そこへ、言葉は行かなかった。
ただ、荷の奥に隠れた工具箱の位置だけを、ロウの手が覚えていた。




