3 名前まで読むな
ダッタはロウへ近づいた。
桟橋の板が足の下で鳴る。ロウは振り返らない。聞こえていないわけではない。背中の動きが一度止まり、手は荷札の上に残った。
「手伝いましょうか」
言ってから、少しだけ後悔した。
何を手伝うのか、分かっていない。荷を動かすことか。出航板を見ることか。理由欄を埋めることか。自分でも分からないまま、手伝うという言葉だけが先に出た。
ロウはようやくこちらを見た。
「間に合ってる」
短い声だった。
キールの指が、縄の端で一度だけ止まった。手伝うと言うつもりだったのかもしれない。けれど、その言葉は出なかった。
「出航板、見ました」
ロウの視線が少し動く。
「確認印が戻ってない」
それだけだった。
「昨日から?」
「一昨日からだ」
ロウは荷札を押さえ直した。
「時刻だけ延びる」
ギータの筆先が紙の上で止まり、すぐにまた動いた。時刻だけ延びる、と別欄へ写している。
アンは出航板とロウの手元を見比べていた。
「出ない理由は、窓口にあるんですか」
ロウは少し黙った。
「戻ってないものは、戻ってない」
答えはそこで終わった。
窓口を責める声ではない。自分を責める声でもない。戻っていない確認印と同じ場所で、声も止まっていた。
もっと聞きたくなった。
どこへ行くのか。誰に届けるのか。なぜその箱だけ、別の手つきで触るのか。なぜ船名板に布を掛けたままなのか。
問いは、工具箱の留め金に引っかかるように増えた。
ロウが小さな箱を持ち上げた。
少しずれた蓋の内側に、薄い紙札が見えた。
読もうとしたわけではない。
でも、目に入った。
ミナ・ハルバ。
文字はそれだけだった。
「ミナさんに届けるんですか」
言い切ったあとで、息が止まった。
ロウの手が止まる。
箱の蓋が、静かに閉じた。
乱暴な音ではなかった。けれど、留め金の風見羽根は蓋の影へ隠れた。箱と視線の間に、ロウの親指が入る。
「名前まで読むな」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。だから余計に、桟橋の音が遠くなった。
「すみません」
言った声は薄かった。
ロウは返事をしなかった。工具箱を荷の奥へ入れる。さっきより深い場所。ほかの部品箱に挟まれ、留め金も見えなくなった。
キールが一歩だけ動きかけた。
「ロウさん」
呼び方は近かった。近すぎたのかもしれない。ロウの肩がわずかに固まり、キールは足を戻した。
アンは何も言わなかった。言葉を選んでいるうちに、選べなくなったような顔をしていた。
ギータの筆先だけが、紙の上で止まっている。
ロウは荷札を一枚、二枚と押さえ直した。
「理由欄、空いたままなんですね」
言い直すには遅かった。
ロウは出航板を見なかった。
「間に合ってる」
同じ言葉だった。
今度は、受け取る場所がない言葉ではなかった。受け取らせないための言葉だった。
船名板の布が、風で一度だけ膨らむ。
隠された名前は、まだ出てこない。
理由欄も、まだ白い。
荷の奥に入れられた工具箱だけが、もう見えなかった。




