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2 出ようとしている船


キールがこちらを見る。


「誰に、ですか」


すぐには答えなかった。マーの名前を出せば、名前の方が先に歩き出す。目の前の係員の指も、荷を積み直す男の肩も、理由欄の白さも、全部その名前の下に入ってしまう。


「言葉の置き方が」


キールは頷きかけて、途中でやめた。


「じゃあ、まだ名前ではありませんね」


そう言ったあと、自分の返事が正解みたいに聞こえたのか、少し視線を落とす。


夕方近く、三度目に船を見た時も、荷はまだ動いていた。


小さな箱が一つ、甲板の端から下ろされている。箱を下ろした中年の男は、桟橋に置いたあと、すぐに別の箱を持ち上げなかった。手の甲で額を拭い、布の掛かった船名板を一度だけ見た。


布は外されない。


風が吹くたびに、布の端だけが鳴る。名前の形は見えない。けれど、板の裏に何かがあることだけは、音で分かる。


アンがその音を聞いていた。


「出ない理由があるのか、出る理由を書けないのか」


短く置いて、それ以上は続けなかった。続ければ、自分がどちらかに決めてしまいそうだったのかもしれない。


ギータが紙に新しい欄を作った。


一回目、朝。理由欄、空欄。時刻、再変更。


二回目、昼。時刻、再々変更。荷、積み直し。


三回目、夕方。荷、積み直し継続。


「止まってる、とは書かないんだな」


ギータは紙から目を上げなかった。


「止まっていると書くには、動きすぎてる」


同じ桟橋。同じ布。同じように遅くなる時刻。


けれど、荷の位置は朝と違っている。縄の結び目も違う。甲板の擦れた跡も、少しずつ増えている。


船は、何もしていないのではなかった。


出ようとしている。


胸の奥に、小さな熱が出た。この船が出れば、港の空気が変わるかもしれない。


そこまで考えて、布の掛かった船名板ではなく、甲板の端に置かれた部品箱を見た。


あの荷は、港を動かすために積まれているわけではない。


誰かの工房へ届けるために積まれている。


まだ名前も知らない船を、自分の記録の続きを書く道具にしようとしていた。


一歩、桟橋の板目から足を引いた。


夕方の鐘が一つ鳴った。


出航板の時刻は、また過ぎようとしていた。


中年の男は、過ぎた時刻を見なかった。船の奥から別の縄を取り、箱の角に掛け直す。布の下で船名板が小さく鳴る。


キールが声を落とした。


「出たい声ですね」


誰の、と聞かなかった。


船の音かもしれない。荷の音かもしれない。男の手かもしれない。まだ見えていない名前かもしれない。


男は最後に、荷の間に置いた小さな箱だけを少し内側へ寄せた。


他の部品箱より新しく、留め金だけが夕方の光を細く返した。荷の順番を変える手つきとは違う。確かめるというより、そこにあることを指で覚え直すような動きだった。


ただ、出ようとしている音だけが、港の奥で夜まで続いていた。


翌朝も、その船は出ていなかった。


出航板には、新しい紙片が増えている。昨日の時刻の横に新しい時刻。そのさらに横へ、細い紙が一枚重ねられていた。糊の跡だけが、朝の光で少し濡れたように見える。


理由欄は、空欄のままだった。


ギータは昨日の写しの下に今日の欄を作った。線を引く音が、出航板の前で細く鳴る。


「船主、ロウ・ハルバ」


「時刻、再変更」


筆先が止まる。


「理由欄、空欄」


荷捌き場の方で、縄が鳴った。


小型船の甲板には、昨日の男がいた。ロウ・ハルバ。船名板にはまだ布が掛かっている。布の下の板は、風が来るたび、小さく鳴った。


ロウは荷を積み直していた。


重い箱を奥へ寄せ、細長い箱をその横へ入れる。金具の箱には布を挟む。荷札を一枚ずつ確かめ、指で押さえてから次へ移る。


急いでいるようには見えない。


けれど、諦めているようにも見えなかった。


ボイロは桟橋の線と積荷の高さを見ていた。


「風は昨日と近いです。荷も、見えている分では偏りすぎていません」


「出られる?」


ダッタが聞きかけると、ボイロの眉が少しだけ動いた。


「出られる、とは言いません。ただ、今見えている風と荷だけで止まっているようには見えません」


言い終えてから、観測紙の端を押さえ直した。まだ何かを言いたそうだったが、飲み込んだ。


窓口の方で、押印箱の蓋が閉まった。


ロウが顔を上げる。出航板を見て、甲板の荷を見る。最後に、昨日も内側へ寄せていた小さな箱へ手を伸ばした。


その箱だけ、他の部品箱より新しかった。


木の色が明るく、角の金具にもまだ擦れが少ない。留め金には、小さな風見羽根の飾りがついている。風が抜けると、羽根だけが細く震えた。


ロウはその箱を、指二本ぶんだけ内側へ寄せた。


荷の重さを整える手ではない。そこにあることを、指で確かめ直す手だった。


キールが小さく言った。


「あの箱の時だけ、手が近い」


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