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第九章 届けるものがあるため 1 空欄を見に行く


昨日の船は、まだ出ていなかった。


けれど、止まってもいなかった。


朝の港は、昨日より少し白かった。


出航板へ寄る前から、昨日の船は見えていた。荷捌き場の端、小型船の船名板にはまだ布が掛かっている。甲板では、積み終えたはずの木箱が一つ下ろされていた。


投げ出した音ではない。順番を変える音だった。


ダッタは案内所へ向かう道を一度通り過ぎて、足を止めた。鞄の中で記録板が当たる。昨日、風見塔の下で書いた三行が、まだ板の奥に残っている。


船名、記載なし。


理由欄、空欄。


出航時刻、書き直しあり。


「出航板、寄っていいか」


ギータが紙束を持ち直した。


「昨日の船?」


「うん」


キールは窓口の方を見た。ボイロは風向き紙を指の間に挟んだまま、船の布翼を見ている。アンは船名板の並びではなく、荷捌き場の端に立つ男の手元を見ていた。


昨日の札は、同じ場所に掛かっていた。


行き先と積荷は同じ字で残っている。船名欄には細い横線だけがあり、理由欄は白い。時刻だけが、薄い線で消され、少し遅い時刻に直されていた。


ギータが隣に立つ。札に触れず、紙を板に当てて写した。


「理由欄、空欄」


筆先が下へ動く。


「時刻、再変更」


その声を聞いている間も、船の方では箱が動いていた。船員が荷札を確かめ、別の箱を先に持ち上げる。縄の輪が床板を擦り、布の掛かった船名板が小さく鳴った。


荷が足りないのかもしれない、と舌に乗りかけた。


けれど、下ろされた箱は捨てられていない。隣へ置かれ、向きを変えられ、また別の箱と並べられる。


ボイロが風向き紙を指で弾いた。紙は少しだけ持ち上がり、すぐ横へ流れる。


「風はあります」


それだけ言って、紙をしまった。飛べるとも、出られるとも言わない。言いたそうな顔だけが、一瞬残った。


「言わないの?」


ダッタが小さく聞くと、ボイロは口を曲げた。


「言いたいです。でも、今見たのは風だけです」


少し悔しそうだった。


アンは布の掛かった船名板を見ていた。


「隠しているのか、戻せないのか」


誰に言うでもなく、そう置いた。そのあと、自分の言葉が重くなりすぎたみたいに、視線を外す。


理由欄は空欄。時刻は再変更。船名板には布。


それだけなら、止まっている船に見える。


けれど、荷を下ろす音は止まっていなかった。箱が動く。札が擦れる。縄が締め直される。


何もしていない船ではなかった。


出ようとしている船の音が、港の奥で低く続いていた。


昼になっても、その船は同じ場所にいた。


布を掛けられた船名板だけが、短い影の中に残っている。朝に下ろされていた木箱は、別の場所に積み直されていた。大きな箱が奥へ入り、小さな金具箱が手前に来ている。


荷札には、別港の修理工房の名があった。


予備部品。軸受け。薄い金属板。巻き直した銅線。


遊びの荷ではない。


出したい荷だった。


甲板の上で中年の男が、箱の角を少しだけ動かした。動かしたあと、いったん手を離す。離してから、また同じ箱を数寸だけ戻した。


ボイロが桟橋の端で背伸びをした。


「重すぎるわけではなさそうです。あの船の大きさなら、箱の数だけで高度が落ちる量では――」


そこで言葉が止まる。


「見える範囲では」


自分で言い直して、唇を結んだ。


「船体の内側までは見ていません」


言い切りたかった顔だった。けれど、言い切らなかった顔でもあった。


ギータは朝の記録紙を開いた。出航板の写しと、今見えている荷の順番を別の欄に分ける。混ぜないように、紙の端に細い線を引いた。


「時刻は動いてる。荷も動いてる」


筆先が止まる。


「理由欄は、動いてない」


出航板では、朝の再変更の横に新しい紙片が貼られていた。時刻はもう一段遅くなっている。古い時刻の線が札の上に重なり、理由欄は白いままだ。


「何で出ないんだろうな」


言ったあとで、奥歯が少し鳴った。


聞きたい。けれど、そう聞いた瞬間、答えがどこか一箇所に隠れていて、それを見つければ船が動くように見えてしまう。


キールが窓口の列へ目を向けた。


「聞こえますか」


首をかしげると、キールは顎を引いた。


「アタイには、怒っている声は聞こえません。でも、何度も同じところで止まっています」


係員は丁寧だった。書類を受け取り、紙を揃え、押印箱を開ける。乱暴に突き返すことも、顔をしかめることもない。


ただ、同じところで手が止まる。


「確認印が戻っていません」


係員は言った。


「今出なくても、失うものはありませんから」


肩が少し固まった。


親切にも聞こえる。急がなくていい。無理をしなくていい。損をしないなら、待った方がいい。


けれど、どこかが曲がっていた。


マーの低い声ではない。目の前の係員は、誰かを傷つけようとしていない。なのに、言葉の角だけが同じ方へ曲がる。


「急がなくても、荷は逃げません」


後ろの別の係員が、別の船員にそう言った。


声の高さは違う。言った人も違う。けれど、置かれる場所が似ている。


記録板を開きかけた。


同じ、と書きたくなった。


マーと同じ。港の言葉が同じ。


そこまで書けば、違和感に名前がつく。名前がつけば、追いかける先が決まる。


でも、記録板の端に指をかけたところで止まった。


あの声は、あの人だけの声ではないかもしれない。


同じ、と書けば、また一つにまとめてしまう。


「似てる」


それだけ言った。


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