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6. 低い高さで一度だけ浮く

子どもは石段の一段目に上がった。

高くはない。ダッタの膝より少し上くらいだった。そこから落ちても、模型はきっと壊れない。たぶん、としか言えない高さだった。

ボイロが遠くから手のひらを下げた。

今ではない。

風が塔の角で回り、少し止まる。

子どもは模型を胸へ戻しかけた。けれど、途中で止めた。両手の間に置き直し、折れた翼の根元を親指で押さえる。

ダッタは何も言わなかった。

言わないでいるだけで、喉の奥に言葉が溜まった。今だ、とか、いける、とか、もう少し、とか。どれも短くて、簡単で、出したら自分が楽になりそうだった。

ダッタは唇を噛んだ。

風がもう一度来た。

ボイロの手が、少しだけ上がる。

子どもは模型を押し出した。

投げた、というほど強くはなかった。手から離した、という方が近かった。

模型は石段の端で一度沈み、折れた翼の方へ傾いた。ダッタの体が先に動きそうになる。受け止める手が出かけて、膝の上で止まった。

模型は落ちなかった。

ほんの短い間、風を受けて、石段の前で浮いた。

低い高さだった。

誰かが歓声を上げるほどではない。塔の影から出るほどでもない。浮いたと言い張れば浮いたし、落ちる前に少し粘っただけだと言えば、そうも言えた。

それでも、模型は一度、子どもの手の外にいた。

ダッタは、そこで初めて息をしていなかったことに気づいた。

次の瞬間、模型は石畳へ落ちた。

軽い音がした。

翼は折れなかった。翼材の端に砂がついただけだった。

子どもはすぐに拾わなかった。

ダッタも拾わなかった。

拾わない時間が、こんなに長いとは知らなかった。

風見塔の管理小屋で椅子が鳴った。親の足音が近づいてくる。扉の内側で、紙束を置く音がした。

子どもの手が動いた。

ダッタは胸に隠すと思った。

けれど、子どもは模型を拾い、両手で持ったまま、膝の上に置いた。折れた翼は見えている。砂のついた端も、見えている。

扉が開いた。

「まだいたのか」

親の声は、叱るほど強くなかった。仕事の途中で顔を出した人の声だった。

子どもは模型を抱き込まなかった。

返事もしなかった。

親は石段と、子どもの膝の上の模型を見た。

折れた翼も、砂のついた端も、たぶん見えた。

何か言いかけて、塔の上から鳴った風鈴の音に顔を上げた。

「風が変わる。塔の下からは離れておきな」

それだけ言って、親はまた小屋へ戻った。仕事の声だった。心配していない声ではない。ただ、朝と同じ言葉ではなかった。

しまっておきな、とは言わなかった。

子どもも、見せるとは言わなかった。

ただ、模型は膝の上に残った。

ダッタはようやく記録板を開いた。手はまだ少し震えていた。さっき出さなかった手の震えが、今になって戻ってきたみたいだった。

最初に、うまくいった、と書きそうになった。

違う。

高く飛んだわけではない。長く飛んだわけでもない。自分が飛ばしたわけでもない。

記録には、乾いた行だけを残すことにした。

風見塔の下。片翼の折れた飛行模型。

糊、紐、替えの翼材あり。風あり。

最初、翼の折れ目に手を伸ばした。

子どもが模型を胸に寄せたので、手を引いた。

ギータは壊れた箇所と触らない箇所を分けて書いた。

キールは、何が怖いのかを一つだけ聞いた。

ボイロは風を見た。飛ぶとは言わなかった。

アンは高さと場所を選ばせた。

模型は石段の一段目から、一度だけ低く浮いた。すぐ落ちた。壊れなかった。

親が戻ってきた時、子どもは模型を隠さなかった。

そこまで書くと、空いた欄に別の文が浮いた。

俺は今日、誰かの翼を勝手に直さなかった。

そう書くと、少し良いことをしたように見える。そこはまだ信用しない。

だから、次の行は短くした。

どこから試すかを聞いた。

聞けた、とはまだ書かなかった。聞いたあとも、何度も口を出したくなったからだ。

風見塔の下で、模型の折れた翼がまた小さく鳴った。

壊れた音ではなかった。

風が通った音だった。

子どものことを、それ以上は書けなかった。書けば、さっきの低い飛び方まで、自分の欄に移してしまいそうだった。

ダッタは記録板を閉じた。

けれど案内所へ戻る途中、荷捌き場の端で、別の白い欄が目に入った。一隻の小型船が荷を積み直していた。

船名板には布が掛けられている。船主の名前も見えない。

積み終えた木箱を、船員がまた下ろす。下ろした箱の札を確かめ、別の箱を先に積む。急いでいるようには見えない。けれど、止まっているわけでもなかった。

出航板には、その船の札が一枚だけ掛かっていた。

行き先は書いてある。

積荷も書いてある。

出航時刻だけが、上から書き直されていた。古い時刻の線が、薄く残っている。

理由欄は空欄だった。

その空白は、さっき書かなかった一行に少し似ていた。まだ誰かの理由を勝手に入れてはいけない場所だった。

ダッタは札を外さなかった。

記録板を開き、写す。

船名、記載なし。

理由欄、空欄。

出航時刻、書き直しあり。

ペン先を止める。

荷を積み直す音が、港の奥で低く続いていた。

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