5. 見られる怖さ
子どもはしばらく、石段の一段目を見ていた。
そこなら低い。落ちても、翼の先が石に当たるくらいで済む。糊も紐もある。替え材もある。
それでも、子どもは動かなかった。
風見塔の管理小屋から、紙をめくる音がした。親の声ではない。足音でもない。ただ、誰かが中にいると分かる音だった。
子どもの肩が少し上がる。
ダッタは、その動きを見た。
落ちることに反応したのではなかった。風が強くなったわけでも、模型が壊れたわけでもない。小屋の中の気配に、子どもの手が先に固まった。
「……落ちたら」
子どもが言った。
声は小さく、風にすぐ削られた。
「また、しまっとけって言われる」
ダッタは返事を探した。
親は悪くない。壊れないように言っただけだ。管理人なら、塔の下で飛ばすものに注意するのも当然だ。そういう言葉が先に浮かぶ。
浮かんだ言葉は、どれも子どもの模型には触れていなかった。
「言われるのが嫌なのか」
ダッタは聞いた。
子どもは首を振らなかった。頷きもしなかった。ただ、折れた翼を親指で撫でた。そこは、さっきダッタが直しかけた場所だった。
「落ちるとこ、見られるのが嫌」
それだけだった。
長い話は続かなかった。
前にも落としたとか、笑われたとか、怒られたとか、そういう説明は出てこない。子どもは管理小屋の窓を見て、それから模型を見て、最後に石段を見た。
ダッタの胸の奥で、昨日の桟橋の白さが少しだけ戻った。
落ちることより、落ちた自分を見られること。
飛ばなければ、落ちない。落ちなければ、見られない。見られなければ、何も失わない。
その形は、知っていた。
知っている、と書きたくなった。
ダッタは記録板を開かなかった。今ここで書けば、子どもの言葉を自分の記録へ急いで持ち帰ることになる。
「じゃあ」
ダッタは石段の一段目を指しかけて、途中で止めた。
また先に決めようとしている。
アンが示した三つの場所が目に入る。一段目。二段目。塔の裏側。どれも、ダッタが選ぶために置かれたものではなかった。
「先に」
言葉が続かない。
子どもが目だけを上げた。
ダッタは息を吸った。キールの問いと、アンの指先を頭の中で拾い直す。
「誰に見られるか、から」
そこでまた詰まった。
決めてもいい、なんて言い方も変だ。許可を出す側みたいに聞こえる。
「そこからでも、いいのかも」
子どもは目だけを上げた。
「飛ぶかどうかじゃなくて?」
「たぶん」
言ってから、首の後ろが熱くなった。弱い。けれど、強く言えばまた押すことになる。
「俺は、そう見えた」
言ってから、首の後ろが熱くなった。
また自分の考えを置いた。
「違ったら、違うでいい」
見えた、と言った。
大丈夫、とは言わなかった。
子どもは模型を抱え直した。胸に隠す形ではなかった。両手で下から支え、折れた翼が見える向きのまま持った。
「じゃあ」
子どもは管理小屋を見なかった。
「今は、そっちの人だけ」
そっちの人。
ダッタのことだった。
胸の奥が、いやなふうに明るくなった。
選ばれた。
その言葉が浮かんで、ダッタはすぐに消そうとした。消そうとしたのに、一度浮かんだものは、記録板の白い欄みたいに残る。
この子は、ダッタを選んだわけではない。
見てもいい相手を、今だけ一人に絞っただけだ。
分かっている。分かっているのに、喉の奥で何かが勝手に温かくなる。
昨日、誰かに見抜かれた場所と同じところだった。
ギータは記録紙を伏せた。キールは柱の向こうへ半歩下がった。ボイロは風を見る位置を変えた。アンは石段から離れ、見ていないふりをするのではなく、本当に別の方を向いた。
ダッタだけが、子どもの前に残った。
見られる役になったのだと気づいて、喉が少し乾いた。
役に立つところを見てほしい時とは違う。
今は、落ちるところを見ても、奪わない役だった。
そうできるかどうかは、まだ分からない。
ダッタは自分の手を一度見た。膝の上に置いたままの手は、何もしていないのに疲れていた。




