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9 閉じない記録板


「ここに、昨日の係員の言葉を書けば」


ダッタは言いかけた。


標が変わっていません。


確認印が戻っていないものは、通せません。


その二つなら、昨日聞いた。自分でも記録した。書ける。空欄を埋められる。埋めれば、見た目だけでも落ち着く。


ギータは紙から目を離さなかった。


筆先が、昨日の発言欄の横で止まる。


そこにはすでに、係員発言として二行が写してある。


ギータはその二行と、空いた理由欄の間に細い線を引いた。言葉ではなく、紙の上の距離だった。


ダッタは出航板を見た。


外港未通過理由。


空欄。


昨日の係員の言葉を入れれば、形だけは埋まる。


けれど、確認印の縁と通過標の裏の擦れは、まだ別々の場所にある。標の白さも、印の薄さも、同じ線なのかどうか分からない。


ペンの軸が、指の下できしんだ。


キールが後ろに立っていた。


いつ来たのか、足音に気づかなかった。


「アタイだったら、今の二行を入れていたかもしれませんわ」


ダッタは振り返らなかった。


「……俺も」


声は、自分で思ったより小さかった。


キールは少し黙った。


「空いてると、何か入れないと離れていかれそうに見える」


言ってから、苦く笑った。


「アタイの癖ですわね」


ダッタは頷いた。頷いたあとで、悔しくなった。


分かっているのに、まだやりたくなる。


白いまま残ると、自分の仕事が終わっていないように見える。何かを書けば、前に進んだことにできる。


ボイロが通過標の方角から戻ってきた。観測紙は持っているが、広げていない。端を指で押さえ、紙が勝手に開かないようにしている。


「通過標は、今朝も白です」


それだけ言った。


少し間を置いて、紙の端をめくる。


「裏の擦れも、昨日見た場所と同じです」


「風は?」


ダッタが聞くと、ボイロは少し顔をしかめた。


「昨日の停止を説明できるほどの変化は、今見える範囲ではありません」


言い終えてから、すぐに付け足す。


「でも、擦れで説明できるとも言いません。僕はまだ、そこまで見ていません」


ボイロの声には、以前より小さな間があった。


知っていることを前へ出す間ではない。知らない場所を踏まないための間だった。


アンは出航板の横ではなく、少し離れた柱にもたれていた。外港へ向かう低空航路が見える位置だ。


「理由を書く人と、理由を残す場所が、ずれているんだね」


その言葉は、答えではなかった。


「ロウさんは書いた。でも、止めた側はまだ書いていない」


アンはそこで口を閉じた。言い切ったあとで、視線が少し揺れる。


誰が書くべきか、とは言わない。


どうすれば書かせられるか、とも言わない。


ただ、ずれをずれとして置いた。


ダッタは記録板を開いた。


昨日の最後の行が目に入る。


船名板の布、戻されず。


その下に、今朝の行を書く。


東風の燕。


船主、ロウ・ハルバ。


理由欄、届けるものがあるため。


ペン先が止まる。


その次に何を書くかは、もう分かっている。


けれど、書く前に一度、出航板を見た。


外港未通過。


外港未通過理由欄、空欄。


ダッタは一行空けた。


届けるものがあるため。


その下に、空欄。


ペン先の黒が、紙に少し濃く残った。


結論、と書く場所がほしかった。


誰かの名前を書きたい場所もあった。


昨日聞いた言葉を並べて、理由の形にしたい場所もあった。


でも、どれも今朝の欄ではなかった。


ダッタは記録板を閉じかけた。


板の端が、掌に当たる。


閉じれば、今日の記録は終わる。終わったことにできる。空欄を見た。空欄と書いた。それで、次へ行ける。


港の鐘が、もう一度鳴った。


昨日も鳴った音だった。


ダッタの手が止まる。


出航板の前では、別の船の札が新しい時刻に貼り替えられていた。窓口の奥で、誰かが同じ高さの声を出す。


「確認が取れ次第、手続きは進められます」


言葉は、朝の空気に薄く広がった。


誰かが怒鳴るわけではない。


誰かが笑うわけでもない。


紙がめくられ、印箱の蓋が開き、閉じる。


ダッタは記録板を閉じなかった。


閉じないまま、顔を上げた。


読んでくださった方ありがとうございます。これにて第1部終了です。

ただいま第2部を作成中ですので、続きが気になる方は登録宜しくお願いします。

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