3. ダッタが直しかけて止まる
折れ目は、刃で入れたみたいにきれいだった。
翼材の向きを合わせて、裏から細い当て材を入れれば、たぶん戻せる。糊を薄く伸ばして、乾くまで紐で押さえる。風に当てるのはその後だ。急がなければ、形だけなら直る。
ダッタの頭の中で、手順が勝手に並んだ。
直せば、飛ばせる。
その手順に引っぱられて、体が少し前へ出た。
「見てもいいか」
聞いたつもりだった。
でも、指はもう模型の翼に近づいていた。返事を待つより先に、折れた箇所を確かめようとしていた。
子どもの肩が跳ねた。
模型が、胸に寄せられる。
強く抱きしめたわけではない。奪われると思って隠したのとも違う。ただ、折れた翼のある側を、自分の体で覆うように少し引いた。
その動きで、ダッタの手は空中に残った。
指先の下に、何もない。
風が通った。手の甲が冷える。
ダッタは、そのまま一呼吸遅れて、自分の手を見た。模型を直す手。直せるところを見つける手。
役に立てるかもしれない手。
手の甲の冷えが、遅れて恥ずかしくなった。
恥ずかしいのに、腹の奥でまだ小さく期待している。直せば、子どもは顔を上げるかもしれない。ギータたちも、今度は止めないかもしれない。昨日より少しはましな自分に見えるかもしれない。
この模型が飛べば。
そこまで来て、喉の奥がひっかかった。
この子の模型なのに、もう自分のことを混ぜている。
昨日、飛ばない方が楽だと書いた手で、今日は誰かの翼を直せたと書きたい。そんな形で昨日の紙を薄くしたい。
そこまで考えたわけではない。考えたくもなかった。
手が前に出た速さは、たぶんその考えより正直だった。
その手が近づいたことで、子どもは模型を遠ざけた。
取るつもりじゃない。
そう言いそうになった。
直せると思っただけだ。壊したままにしたいわけじゃない。役に立てるところが見えたから、手が出ただけだ。
言い訳はいくつも浮かんだ。どれも、口に出せば少しだけ自分が楽になりそうだった。
その分だけ、子どもの腕にさらに力が入る。その前に、口を閉じた。
「ごめん」
声が出た。
軽すぎた。しかも、少し硬かった。
謝っているのに、どこかでまだ、警戒されたことに傷ついている。
ダッタはそれに気づいて、もう一度言いかけてやめた。謝る声で押すこともある。昨日、誰も代わりに書かなかった時の沈黙を思い出す。
ダッタは手を膝の上に戻した。
子どもはまだ模型を胸に寄せている。目は下を向いたまま、まつげだけが小さく震えていた。
ギータが少し後ろで紙束を持ち替えた。キールは一歩近づきかけて、止まった。ボイロの風向き紙が指の間で揺れる。アンは何も言わない。
誰も、正しい言葉を置かなかった。
その静けさが、ダッタには少し痛かった。誰かに止められた方が楽だった。駄目だと言われれば、間違いの形がはっきりする。自分は止められたから止まったのだと、言い訳もできる。
止めたのは誰かの声ではない。
子どもの腕だった。
胸に寄せられた模型だった。
ダッタは目線を少し落とした。折れた翼ではなく、模型を押さえる子どもの手を見る。爪の間に薄い糊が乾いている。前にも直そうとした跡がある。替え材は新品ではなく、端に小さな切り傷がいくつもあった。
何もしていないわけではない。
飛ばしたくないわけでも、たぶんない。
ダッタはゆっくりと言った。
「触らない」
子どもの指が、ほんの少しだけ緩んだ。
「今は」
その言葉を足すのに、少し迷った。ずっと触らないと言えば安心するかもしれない。けれど、それもまた別の決めつけだった。
「今は、触らない」
子どもは返事をしなかった。
けれど、模型を胸に押しつける力は、さっきより弱くなった。折れた翼の先が、少しだけ外に出る。
ダッタはその先を見ないようにした。
代わりに、地面の白線を見た。風見塔の影が、ゆっくり動いている。さっきまで模型の下にあった影が、今は子どもの靴の先へ移っていた。
「飛ばすかどうかは」
言いかけて、言葉がつかえた。
それを言う資格が、今の自分にあるのか分からなかった。さっきまで、直せば飛ばせると思っていた。相手の返事より先に、手を出していた。
ダッタは膝の上の指を握った。
「俺が」
そこまで言って、止まった。
言い切ると、また決めたみたいになる。
「俺が決めることじゃ、ない、か」
子どもに言ったのか、自分の手に言ったのか、分からなかった。
口にしてから、胸の奥が少しざらついた。
当たり前のことを、今さら言っている。
それでも、言わないと手がまた先に動きそうだった。言っても、膝の上の指はまだ落ち着かなかった。
子どもは模型を抱えたまま、塔の裏を見た。管理人の声が遠くで聞こえる。工具箱を閉める音。誰かを呼ぶ声。忙しそうで、悪い声ではない。
子どもの視線は、空ではなく、そちらへ行った。
ダッタはその視線を追って、そこで初めて、痛みのある場所を取り違えていたことに気づいた。
落ちることだけを見ていたのは、自分の方かもしれない。
そのまま知った顔になりかけて、いや、分かったふりをするな、と内側で別の声がした。まだ子どもは何も説明していない。自分が勝手に近づいて、勝手に引っかかっただけかもしれない。
模型はまだ直っていない。
風も、待ってはくれない。
それでもダッタは、膝の上で手を握ったまま、次の言葉を探した。直す手順ではなく、最初に聞くべきことを。
「どこなら」
声がかすれた。
ダッタは言い直した。
「どこなら、置いても……嫌じゃない?」
言ってから、語尾の形が落ち着かなかった。
大丈夫そうだ、と言えばよかったのか。嫌じゃない、では狭すぎるのか。ダッタは子どもの顔を見すぎないように、石段の端へ目を落とした。




