第8章 しまわない翼 1. 翌朝の記録
朝の風は、昨日より少し乾いていた。
ダッタは作業台の端に記録板を置いたまま、しばらく手を伸ばせずにいた。角には、旧東係留区の細かな砂がまだ残っている。払えば落ちる。けれど、払うと昨日のことまで軽くなりそうで、指先は紙の上で止まった。
最後の三行を読み返す。
マー・ゴッブダは、俺の見てほしいを知っていた。
俺は、飛ばない方が楽に見えた。
あの声は、あの人だけの声ではないかもしれない。
文字はほどけていない。黒くもなっていない。ただ、朝の光の中でも重かった。
全部あの人のせいだと書けば、少し楽になる。
ペン先が紙に触れた。触れただけで、線にはならない。インクの丸が小さく膨らみ、紙の目に沈んでいく。
ダッタは息を吐いた。
書けば、昨日の怖さに形がつく。形がつけば、持ち運びやすくなる。けれど、その形が大きすぎると、自分が書いた一行までその下に隠れる。
飛ばない方が楽に見えた。
それを書いたのは、誰かの声に押されたからだけではない。
ダッタは記録板を閉じた。閉じる音が作業場に大きく返り、作業台の上の薄い端材が一枚震えた。
外から、風見塔の鈴が鳴った。
一度だけ。
昨日の旧東係留区で聞いた風とは違う。こちらの風は、町の屋根と布看板を渡り、乾いた縄を鳴らしながら通っていく。出航の風ではない。けれど、止まってもいない。
ダッタは記録板を鞄に入れた。
今日は原因を書きに行く日ではない。
そこまで書きかけて、ペンを止めた。
そんな立派な言葉を置けば、紙の上だけは少しまともに見える。昨日それを突かれたばかりなのに、まだ同じ場所を触っている。
ダッタは記録板を鞄に押し込んだ。しまうというより、視界からどけたかった。部屋に残って紙を見続けていると、同じ言葉を何度も違う形でなぞってしまいそうだった。
外へ出ると、ギータが先に通りに立っていた。記録紙の束を小脇に抱えている。キールは水筒の紐を結び直し、ボイロは小さな風向き紙を指先で弾いていた。アンは少し離れて、風見塔の上を見ている。
誰も、昨日の続きをすぐには聞かなかった。
その沈黙に、ダッタは少しだけ救われて、少しだけ困った。
「風見塔、寄っていいか」
自分の声は、朝の作業場にいる時とあまり変わらなかった。
アンがこちらを見た。
「いいよ」
理由は聞かれなかった。
ダッタは歩き出した。鞄の中で、記録板の角が腰に当たる。痛いほどではない。ただ、そこにあると分かる強さだった。




