10. 怖い記録
顔を上げた時、マーはまだ船の上にいた。
だが、少しだけ遠くなっていた。距離は変わっていない。桟橋も船も、さっきと同じ場所にある。それでも、マーの声の届き方だけが少し変わっている。
「まだ分からない、か」
マーは言った。
「便利な言葉だ」
「逃げにする時もある」
ダッタの声はまだ小さかった。
「でも、今は終わりにしたくないから書いた」
マーの影が動いた。
一瞬だけ、顔の輪郭が見えた。冷たい目だと思った。だが、その奥に、冷たさとは違う疲れがあった。
「終わりにしなければ、痛みも終わらない」
「終わらせたいだけなら」
ダッタは記録板を抱え直した。
「たぶん、名前を書けばよかった」
マー・ゴッブダ。
全部この人のせいだと書けば、少し楽になる。
でも、書けなかった。
書かなかったのではない。まだ書けなかった。
その違いを、今は手放したくなかった。
マーはしばらく黙っていた。
桟橋の下で、水がまた柱に当たる。古い船の布が風でわずかに膨らみ、すぐに萎む。
「お前は、また落ちる」
マーは言った。
「見ている者がいるうちは、飛ぶ理由を借りられる。誰も見なくなった時、その船は止まる」
言葉が桟橋へ落ちた。
その下から、別の音がした。
同じ声ではなかった。
マーの低い声の下に、もっと薄く、平らなものが混じった。
選ばない者は、扱いやすい。
ダッタは息を止めた。
今の言葉を、マーが言ったのか分からなかった。
マー自身も、ほんの一瞬だけ黙った。
その沈黙が、何より気持ち悪かった。
アンが小さく息を吸う。
キールは耳を押さえなかった。聞き逃さないように、むしろ顔を上げた。ボイロの観測紙に、今までの曲がり線とは違う、まっすぐすぎる線が一本だけ出る。ギータはそれを見て、すぐに記録紙の束から離した。
混ぜない。
誰もそう言わなかった。
でも、全員が同じように少しだけ離した。
マーは船の影へ戻る。
「次に来る時は、もっと正直な理由を持ってこい」
「マー」
ダッタは呼んだ。
名前を呼んだのは初めてだった。
影は止まらない。
「あなたの声じゃないものが、今、混ざった」
返事はなかった。
船の布が一度だけ鳴り、次の瞬間、折れた帆柱の横には誰もいなかった。
旧東係留区に、風だけが残る。
強い風ではない。
出航できるほどでもない。
でも、止まってはいなかった。
ダッタはその場に座り込まなかった。座り込みたかった。膝の奥が冷えて、指先が痛い。記録板を持つ手も、まだ震えている。
それでも立ったまま、最後の欄を開いた。
今日分かったこと。
そこに何も書けなかった。
分かった、と言えるものは少ない。マーがいた。マーは黒札と関係がある。マーはダッタの見てほしいを見抜いた。飛ばない方が楽に見えた。
どれも事実だ。
でも、ひとつにまとめると嘘になる。
ダッタは一行空けた。
それから書いた。
マー・ゴッブダは、俺の見てほしいを知っていた。
次の行。
俺は、飛ばない方が楽に見えた。
さらに一行空ける。
あの声は、あの人だけの声ではないかもしれない。
書いた文字はほどけなかった。
黒くもならなかった。
ただ、紙の上に重く残った。
羅針盤は、旧東係留区の奥を指したまま止まっている。
その向きがマーを指しているのか、マーの下に混ざった声を指しているのか、まだ分からない。
ダッタは板を閉じた。
卵の奥で、かすかな音がした。
こつ。
それだけだった。




