9. 飛ばない方が楽
足元の桟橋が、少しだけ白く見えた。
海の反射ではなかった。黒札の時の重い白さに似ている。夕方の色が抜け、古い停泊場の船たちが、紙でできた影のように薄くなる。
ダッタは目を閉じていない。
それなのに、操縦室の赤い灯りが見えた。
戻れ。
警告音。
おお、と聞き違えた声。
見られたいと思った手。
戻すのが遅れた操縦桿。
飛ばなければ、落ちなかった。
その言葉が、黒札の声より近くに来る。耳ではない。歯の裏でもない。胸の中、卵の殻の内側に、文字の形で触れてくる。
飛ばなければ。
「ダッタさん」
キールの声が遠い。
ギータが何か言っている。ボイロが観測紙を開いている。アンが一歩前へ出た気配がする。
でも、マーの声だけは近い。
「止まることを、負けだと決めたのは誰だ」
その問いは、優しく聞こえた。
優しく聞こえたことが、怖かった。
止まっていれば、もう落ちない。
船を直さなければ、直した船で失敗しない。
誰かの白紙へ線を引かなければ、間違えない。
名前を書かなければ、外さない。
見てほしいと言わなければ、見てもらえなかった時に傷つかない。
全部が、少しずつ正しい。
正しいものだけが、足元を白くしていく。
記録板の奥で、卵が濁った。
見て。
助けたい。
落ちたくない。
間違えたくない。
文字は声にならない。殻の内側で重なり、読める前に曇る。ヒビは広がらない。ただ、今あるヒビの端が白く濁って、そこから音が消えかける。
こ。
音が途中で止まった。
ダッタは息を吸った。
吸っただけで、答えは出ない。
「俺は」
声が出た。
小さい。
マーには届かなかったかもしれない。
「俺は、まだ」
止まった方が楽だと思っている。
その言葉を言いかけて、飲み込む。
飲み込んだことに、卵の内側が重くなる。
ダッタは記録板を開いた。
手が震えて、紙の端が鳴る。
ギータが支えようとして、止まった。
キールも何も言わなかった。
ボイロは観測紙を下ろした。
アンは、マーを見たまま、ダッタの横に立っている。
誰も代わりに書かなかった。
ダッタは一行空けた。
ギータが言った通りに。
それから書いた。
飛ばない方が楽に見えた。
ペン先が紙に引っかかる。
文字は黒くならなかった。
ほどけもしなかった。
ただ、重かった。
ダッタは続けて書いた。
でも、楽な方を選びたいのかは、まだ分からない。
こつ。
卵の奥で、止まりかけていた音が一度だけ戻った。




