5. 原因にしたい
昼を過ぎると、港の音は少し戻った。
戻ったように聞こえただけかもしれない。出航した船は少ない。荷車は動いているが、同じ場所を何度も往復している。旅券窓口の列は伸び、誰も怒らないまま、少しずつ疲れていく。
ダッタは案内所の隅で、擦れた名前の写しを見ていた。
マ……ゴ……ダ。
間の抜けた文字。読めるようで読めない。名前に見える。名前であってほしい。
「そこばかり見ていると、他の線が消えます」
ギータが水を置いた。
ダッタは顔を上げた。
「でも、ここが分かれば」
「分かることもあります」
ギータは否定しなかった。
「ただ、今朝の札は、黒くありませんでした」
「だから、言葉を追うんだろ」
自分の声が少し強くなった。
ギータは水の器から手を離さない。
「言葉を追うことと、名前へ急ぐことは違います」
ダッタは黙った。
言い返せる言葉なら、いくつかあった。
急がないと広がる。名前があれば止めやすい。黒札の向こうに誰かがいるなら、見つけなければならない。
どれも間違いではない。
でも、どれも少しだけ、自分をよく見せる言い方に寄っている。
俺が見つけた。
俺が止めた。
俺が、みんなを。
こつ。
記録板の奥で卵が鳴った。
ダッタは板を膝に置いた。触れていないのに、表面が少し曇って見える。文字は浮かばない。ただ、内側から叩く音だけがする。
こつ。
こつ。
見て。
文字になったわけではない。
でも、そう読めてしまった。
キールが扉のそばから振り返る。
「ダッタさん」
「大丈夫」
すぐに言った。
大丈夫、と言うのが早すぎた。
キールはそれを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「では、大丈夫ではないところだけ、記録に残しておいてください」
その言い方に、胸の奥が少しだけ詰まった。
ダッタはペンを取る。
マー・ゴッブダの名前にしたい。
そう書こうとして、手が止まる。
名前にしたい、では弱い気がした。見つけたい、の方が正しい気がした。止めたい、の方が格好がつく。
でも、格好をつけるための記録なら、黒札と同じ場所へ落ちる。
ダッタはゆっくり書いた。
誰か一人の名前にできれば、少し楽になる。
文字はほどけなかった。
だが、卵の奥で、短いヒビが鳴った。




