4. 名前を避ける
案内所に戻ると、机の上の短い線は消えていなかった。
アンはその紙を片づけなかった。目立つ場所にも置かない。机の中央から少しだけずらし、他の航路図とは重ねずに置いている。
ダッタはその横に、集めた言葉の写しを並べた。
出さなければ、割れない。
送らなければ、悪い返事は来ない。
飛ばさなければ、落ちない。
全部、最後は止まる。
ギータが観測紙を並べた。
「角度が一致します。黒札の文字断片と、三枚の線の端が」
ボイロは紙面を確認した。
「アンさんの引いた線とも、同じ曲がり方です」
キールが静かに続ける。
「港でアンさんが反応した言葉が、この角度を持っていました」
三枚の観測紙。黒札の文字断片。アンの短い線。
マ……ゴ……ダ。
材料は机の上にある。
あとはひとつにまとめればいい。
ひとつに。
「マー・ゴッブダ」
声に出したのは、ダッタだった。
言った瞬間、案内所の壁の航路図が一枚だけ揺れた。
アンの手が止まる。
ギータは記録紙を押さえた。キールは息を吸い、すぐには何も言わなかった。ボイロの観測紙の端が、白く潰れる。
「前に、名前みたいに見えたんです」
ダッタは早口になっていた。
「マ……ゴ……ダ。全部は読めなかった。でも、黒札の近くにあった。港にも同じ言葉が増えてる。アンさんが知ってる人も、その線を描いてた。だったら」
だったら。
言葉はそこで止まった。
だったら、その人が原因だ。
そう言えば、港の薄さも、黒札も、卵のヒビも、全部ひとつの名前へ集められる。
集めれば、扱える。
ギータが黒札を分けた時のように。ボイロが未確認と書いた時のように。キールが観察と気持ちを分けた時のように。
けれど、今の自分の手は分けているのではなく、押し込んでいる。
アンは机の短い線を見た。
「名前は、便利だね」
責める声ではなかった。
「呼べば、そこに置ける」
ダッタは返せなかった。
アンは古い引き出しを少しだけ開けた。中には、使わなかった札と、折れた航路図の切れ端が入っている。その奥に、焦げた線のある紙が見えた気がした。
アンはそれを取り出さなかった。
「私が知っているのは、名前より前の線」
「名前より前?」
「まだ、止める人じゃなかった頃の線」
部屋の奥で、分岐点の航路図が一度だけ鳴った。
ダッタはその音に、名前を書き足したくなった。
マー・ゴッブダ。
記録板の空欄が、その名前を待っているように見えた。
でも、アンの短い線の横には、まだ置けない。
ダッタはペンを下ろした。
書かなかったのではない。
まだ書けなかった。
その違いだけを、今は残すしかなかった。




