6. 線の向き
最初に声を出したのは、ボイロだ。
「線、残ってます」
ダッタは瞬きをした。
案内所の床に膝をついていた。いつ戻ったのか、はっきりしない。記録板は両手で抱えている。端の留め具の中で、針は動かない。
ギータは机の横に立っていた。黒札と未記入の札の間に置いた薄い金属板を、指で押さえている。キールは扉のそばで、外の音と中の音を聞き分けるように目を伏せていた。ボイロは観測紙を胸の前に持ち、机の上を見ている。
アンは白紙の前に立っていた。
いや、もう白紙ではない。
中央より少し下に、短い線が一本ある。
ボイロが観測紙へ何かを書こうとして、手を止めた。
「途中までです。でも、描かれている部分は本物です」
その言い方は、ボイロ自身に言い聞かせているようでもあった。分からないものに名前をつけ急がない。けれど、見えたものまでなかったことにしない。
ギータは短い線を見た。
「日付を入れますか」
アンは少し迷った。
それから、ペンを持ち直した。
線の横へ、小さく今日の日付を書く。
行き先は書かない。
日付だけ。
ギータは頷いた。
「記録されました」
それ以上は言わない。短い線がどれだけ小さくても、記録された事実として扱う言い方だ。
キールは扉の外を見た。
「外の札は、まだありますわ」
港の方から、人の声が流れてくる。出航板の前の薄い音。荷車の車輪。戻される荷の擦れる音。
黒札は消えていない。
未選択の札も、たぶんまだ増えている。
キールは続けた。
「でも、中の音は少し変わりました」
「音?」
ダッタが聞くと、キールは案内所の壁を見た。
「全部を残そうとしている音ではなくて、一つを置いた音、でしょうか。私も、うまくは言えませんけれど」
アンが、ほんの少しだけ笑った。
笑ったというより、息がほどけた。
「一つを置いた音か」
「違いました?」
「ううん」
アンは机の線を見た。
「たぶん、それで合ってる」
ダッタは記録板を開いた。
針は、机の短い線と同じ向きで止まっている。留め具の中に収まったままなのに、さっきまでとは違う。どちらが先か分からない細い針に、向きがある。
「羅針盤」
言葉がこぼれた。
ギータが見る。
「完成したんですか」
「分からない」
すぐに返した。
前なら、完成した、と言いたかったかもしれない。言えば、役に立った気がする。何かを得たと言える。次へ進める理由になる。
でも、針はどこかの港を指しているわけではない。
アンが引いた短い線と、同じ向きを示しているだけだ。
「でも、さっきまでよりは、動かない」
ボイロが観測紙をのぞく。
「止まってる、じゃなくて、揃ってる?」
「たぶん」
ダッタは針を見た。
「揃ってる」
アンは答えなかった。
ただ、机の引き出しを少し開けた。中には古い航路図の切れ端や、使わなかった札が何枚か入っている。アンはその中へ手を入れず、引き出しをまた閉めた。
ダッタは尋ねなかった。
聞きたいことは残っている。
あの人。
右の黒い線。
アンが落とした言葉。
どれも、まだ記録にはできない。
できないことを、空欄として残すしかない。
案内所の外から、朝の風が入った。
昨日より強いわけではない。扉を鳴らすほどでもない。けれど、壁の航路図の端を少しだけ動かした。
アンはその風を見ていた。
「行き先は」
ダッタは言いかけて、言い直した。
「行き先までは、まだ決めてないんですね」
アンは頷いた。
「決めてないね」
「でも」
「うん」
アンは短い線を見る。
「この紙を、空欄には戻さない」
その声は断言に近かった。
けれど、固くはなかった。
ダッタは記録板にペンを置いた。
書く前に、一度だけ針を見る。
針は揃ったままだ。
ダッタはゆっくり書いた。
アン・ワラーツは、白紙に一本だけ線を引いた。
行き先は書かなかった。
でも、線を消さなかった。
そこで手を止める。
外では、まだ黒札が残っている。飛ばなければ落ちない、という声も消えたわけではない。あの人の名前も、右の黒い線の先も、まだ分からない。
記録板の名前欄にペンを置きかけて、止めた。
まだ、アンの線の横に置くものではない。
だから、分かったことだけを書く。
針は、誰かが答えをくれた時に動くのではなかった。
自分で引いた線に、揃った。
その下に、もう一行。
俺は、人の白紙に線を引けない。
ペンが止まった。
ダッタは、最後に小さく付け足した。
でも、待つことはできる。
書いた文字は、ほどけなかった。
アンはそれを読まない。
ギータも、キールも、ボイロも、覗き込まなかった。
ただ、案内所の中に短い線が残っている。
それだけで、部屋の音が少し変わっていた。




