5. 一本だけ
アンがペンを取った。
壁の航路図は動かなかった。
それだけで、ダッタは自分の失敗をもう一度知る。さっき自分が手を伸ばした時、壁はあれほど揺れた。アンの手では、揺れない。白紙も逃げない。
ペンがインク壺へ沈む。
古い黒が、ゆっくり上がってくる。
アンはすぐには書かなかった。ペンを持ったまま、白紙の上で止まっている。手首に力が入っているのが分かる。けれど、肩は上がっていない。呼吸も荒くない。
待っている。
ダッタはそう思った。
誰かの許しを待っているのではない。正解が降りてくるのを待っているのでもない。自分の手が、自分のものとして動くところを待っている。
針が記録板の端で揺れた。
まだ、どこも指さない。
アンは奥の分岐点の航路図を一度だけ見た。
右の黒い線。
左の薄い線。
重さの痕。
それから、白紙へ視線を戻した。
「どこへ行くかは」
ペンが紙に近づく。
「まだ書けない」
黒い点が落ちた。
今度は消えなかった。
アンは、その点から短い線を引いた。
まっすぐではない。少しだけ右へ傾き、それから止まる。港の名前も、風待ちの印も、到着予定もない。航路図と呼ぶには短すぎる。けれど、出発点だけではなかった。
白紙の上に、一本。
それだけ。
壁の航路図が、音を立てずに止まった。
増えた紙は消えない。途中で止まった線も、黒く沈んだ右の線も、薄く続いた左の線も、そのまま壁にある。
ただ、机の白紙に引かれた一本だけが、壁のどの線よりも濃く残っていた。
ダッタの記録板が軽く鳴った。
針だ。
留め具の中で震えていた細い針が、ゆっくり回った。回るというより、迷っていた向きを一つずつ捨てていく。右でも左でもない。上でも下でもない。
白紙の短い線と、同じ向き。
そこで止まった。
動かなくなったのではない。
揺れなくなった。
ダッタは記録板を両手で持った。
「これ」
声がうまく出ない。
アンは針を見た。
「向きが、入ったんだね」
「この線の方を」
「うん」
アンは白紙を見る。
「私が行き先を書いたからじゃない」
「じゃあ」
「書く向きを、決めたから」
短い返事だ。
それ以上、アンは説明しなかった。
ダッタにも、全部は分からない。ただ、針が初めて一つの向きで止まっている。誰かが答えをくれたからではない。アンが、自分の紙に、自分の手で一本だけ引いたからだ。
羅針盤は、どこか遠くの正解を指すものではなかった。
少なくとも今は。
自分で引いた線を、見失わないためのもの。
そう書きかけて、ダッタはやめた。
まだ早い。
記録は、戻ってからでいい。
白紙の線から、細い風が立った。
港の外から入る風ではない。紙の中を通る風だ。折りたたまれていた航路図の間を抜け、吊り紐を少しだけ鳴らし、部屋の奥の分岐点へ触れる。
右の黒い線は消えない。
左の薄い線も消えない。
分岐点の痕だけが、少し浅くなった。
アンはペンを置いた。
その時、案内所の床が戻ってきた。
木のきしみ。
朝の光。
油と紙の匂い。
壁の航路図は、まだ何枚も吊られている。けれど、さっきのように隙間なく増え続けてはいない。
机の上には白紙がある。
白紙ではなくなった紙がある。
短い線が一本だけ残っている。




