4. あなたの線ではない
「初めて」という言葉が、まだ耳に残っていた。
その後を聞きたかった。なのに、手が動かなかった。
アンは机に戻っている。白紙の前で、ただ立っている。
何かしなければ、という気持ちが先に来た。聞けなかった分を、別の形で埋めたかった。それが誰のためかは、自分でもはっきりしない。
机の上のペンが、白紙の方へ傾いていた。
動いているのではない。誰かの手を待つように、ペン先が紙に向いたまま、今にも滑りそうな角度で止まっている。アンは見ていない。
足が前へ出た。
机の横に、ペンがある。
部屋の奥で、分岐点の航路図が揺れた。
揺れは壁全体へ広がった。
吊り紐が鳴る。途中で止まった航路図が一斉にめくれ、紙の裏が白くひるがえった。どの裏にも何も書かれていない。けれど、白い面が見えるたび、まだ書ける、まだ変えられる、という声が部屋に増えた。
ダッタの指がペンに触れた。
冷たい。
使われていない道具の冷たさではない。誰かの手から長い時間離れていたものが、まだ手の形だけ覚えている冷たさだ。
「俺が」
言いかけて、喉が詰まる。
俺が助ける。
俺が決める。
俺が進ませる。
どれも同じ言葉に聞こえた。
それでも、指はペンを握った。握るところの色が濃くなっている。誰かが何度も持った跡だ。アンの手かもしれない。アンに航路を聞きに来た誰かの手かもしれない。そう思った瞬間、ペンが少し重くなる。
「アンさんが選べないなら」
ダッタは白紙へ向けた。
「誰かが一本」
ペンが紙に触れた。
音がしなかった。
インクは出ている。黒い雫が溜まり、紙へ落ちる。落ちたはずなのに、白紙は白いままだ。雫だけが紙の上で丸くなり、線になる前に薄く消える。
ダッタはもう一度、手を動かした。
今度は少し強く。
紙の繊維がへこむ。線の跡はできる。けれど、手を離すとすぐに戻った。雪の上に息を吹いた時のように、跡だけが白くほどける。
「なんで」
壁の航路図が、さらに増えた。
ダッタが引こうとした線の数だけ、別の紙が吊られていく。短い線。曲がった線。無理に進んだ線。どれも出発点だけが濃く、すぐ途中で止まっている。
「止まれ」
声は大きくない。
けれど、紙の音が一斉に止まった。
アンが白紙を見ていた。
怒ってはいなかった。手も震えていない。ただ、袖口の紐を直す指だけが白くなっている。
「それは、あなたの線ではない」
ダッタはペンを持ったまま固まった。
「でも」
「うん」
アンは頷いた。
「誰かが引かないと、と思ったんだよね」
その言い方が柔らかくて、余計に逃げ場がなかった。
ダッタは白紙を見る。
何も残っていない。
自分が何かをした証拠すらない。けれど壁には、今しがた増えた失敗の航路図だけが並んでいる。人の白紙へ手を伸ばした分だけ、途中で止まった線が増えた。
ペンを置く。
指がなかなか離れなかった。
「すみません」
声は小さかった。
アンは返事をしない。
代わりに、奥の分岐点の航路図がゆっくり動いた。
二本に分かれた線の根元が浮き上がる。右の黒い線が少し濃くなり、左の薄い線が紙の奥へ沈む。分岐点の重い痕だけが、机の灯りを受けても暗いままだ。
ダッタはそこへ目を向けた。
聞きたいことが、すぐに浮かんだ。
あの人は誰ですか。
何を言ったんですか。
アンさんは、何をしたんですか。
問いは三つあるようで、一つにまとまっていた。そこを開けば、きっと何かが分かる。黒札の声のことも、あの人のことも、アンが白紙に触れない理由も。
分かれば、進める。
そう思った時、手の中にまだペンの重さが残っていることに気づいた。
分かることと、選べることは同じじゃない。
さっきアンが言った言葉が戻ってくる。
ダッタはペンから手を離した。
今度は、最後まで。
「聞きたいです」
アンは分岐点の航路図を見ている。
「でも」
言葉を選ぶのに、時間がかかった。
「今、俺が聞いたら、たぶん、アンさんの線をまた増やす」
アンの横顔が少しだけ動いた。
「そうかもしれないね」
それは肯定でも、拒絶でもなかった。
ダッタは記録板を抱え直した。
「だから、待ちます」
言った途端、足元が少し沈んだ。
沈んだのは床ではない。自分の急ぎ方だ。前へ出た膝が、やっと止まった。
部屋の奥で、黒い右の線がかすかに震える。
アンはそこから目をそらさなかった。
「あの人のことを、私は知っている」
同じ言葉だ。
けれど、さっきよりも少し近かった。
「知っていて、止めようとした」
分岐点の痕が濃くなる。
「正しかったかどうかは、今も分からない」
アンの指が袖口の紐を離れた。
「でも、私が口にした。それは本当のこと」
右の線の黒さが奥へ引いた。消えたのではない。線の先へ戻っただけだ。分岐点に落ちていた重さが、ほんの少し紙から浮く。
ダッタは何も言わなかった。
何か言えば、言った瞬間に自分の線になる。そう分かるほどには、白紙の前で失敗した手がまだ痛かった。
アンは机へ戻った。
壁に吊られた航路図が、道を開けるように左右へ揺れる。部屋は広くなっていない。なのに、机までの距離だけが少し長くなった。
アンは椅子に座らなかった。
白紙の前に立ったまま、ペンを見ている。
「全部、残せると思っていたんだと思う」
声はほとんど紙の音に紛れた。
「残しておけば、誰も失わない。どちらの言葉も、間違いにしなくていい。どちらかを選んだ私も、選ばなかった私も、まだどこかに置いておける」
アンはペンを取らない。
「でも、置いておいたものは、残ったんじゃない」
白紙の角が少し浮いた。
「私が、ずっと見に来なかっただけ」
ダッタは息を止めた。
その言葉は、誰かへの説明ではない。アンが白紙の前で、自分の手に向けて置いた言葉だ。




