3. 対話
「初めて」という言葉が、少し長く残った。
その後を聞きたかった。右の黒い線に何があったのか。アンが口にした言葉は届いたのか。問いは全部持っている。なのに、手が動かなかった。
アンは机に戻っている。白紙の前で、ただ立っている。
何かしなければ、という気持ちが先に来た。聞けなかった分を、別の形で埋めたかった。それが誰のためかは、自分でもはっきりしない。
ペンを持つ手が、動かなかった。
部屋の音が戻ってくる。港の声。荷車の音。扉の隙間から差し込む光の筋。
アンは白紙を見ていない。
壁の古い分岐点の航路図を、また見ていた。
「口にしたんだ」
声はほとんど、部屋に向けて置かれた言葉だった。
「何を、とは聞かないで」
ダッタは聞かなかった。
「止めようとして、口にした。それだけは、本当のことだから」
アンの指が、袖口の紐へ戻った。戻ってから、また離れた。どちらの動きも、意図したようには見えない。
「でも、止まらなかった」
怒りでも後悔でも聞こえない声だった。ただ、重かった。紙に落として拾わないままにしたものが、まだそこにある重さだ。
「その人が、言っていた」
アンは分岐点の右の線を見ている。
「動いても、どうせ間違える、って」
ダッタは息を止めた。
どこかで聞いたことがあった。どこで、とはすぐに出てこない。ただ、黒札に残っていた文字と、同じ形をしていた。
「私は」
アンの声が少し低くなった。
「違うと言った」
「言えた?」
「言えた」
「でも」
「うん」
アンはそれ以上続けなかった。
言えたのに、止まらなかった。その間にあるものへ踏み込もうとして、ダッタはさっき白紙へ伸ばした自分の手を思い出した。指が止まる。
記録板の端で、針が一度だけ揺れた。
「その人は」
アンがひとこと、置いた。
「私が、初めて航路を描いた相手だった」
それだけ言って、アンは机の方へ戻った。
扉の向こうで、荷車の音が遠ざかる。




