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2. 全部残せる場所


アンの航路案内所は、朝の光を入れても夜の匂いが残っていた。


紙と油。古い木。少し湿った紐。壁には航路図が何枚か吊られている。日付の入ったもの。港の名が書かれたもの。到着予定の線に修正の跡があるもの。それ自体は、案内所の壁として不思議ではない。


昨夜見た時と同じ場所だ。


同じ場所なのに、ダッタはすぐに一点を見つけた。


机の上だ。


白紙が一枚、中央に置かれている。受付札でも出航届でもない。航路図に使う厚い紙だ。角は新しい。折り目も汚れもない。


その横に、ペンが一本。


インク壺の蓋は開いている。乾いていない。使えるはずなのに、ペンは白紙の手前で横たわっている。軸は古い。握るところだけ、長く使われた道具の色に変わっていた。


だが、ペン先は白紙の方を向いていた。


使っていたものを置いた位置だ。まだ書いている途中で、少しだけ手を離した位置。案内所に誰もいなかったはずなのに、ダッタはそう感じた。


白紙の中央に、ごく薄い跡がある。線ではない。ペン先が触れた圧の跡が、かすかに繊維を押していた。


「これは誰のものですか」


ダッタは壁の一枚を指した。


アンは壁を見る。


「誰かのもの」


「これも?」


「うん」


「あれも?」


「うん」


「じゃあ」


ダッタは机の白紙を見た。


アンの視線が、一瞬だけ遅れた。


「アンさん自身のは?」


アンは答えなかった。


机の端に、手を置いた。


ペンが、小さく鳴った。


金属が木に触れるような短い音だ。誰も動かしていない。アンの手が机に触れた瞬間、ペンだけが鳴った。


壁が変わった。


ダッタの足元が、わずかにずれた。床が動いたのではない。自分の立ち位置が、どこか別の場所と重なった感覚だ。


気づいた時には、吊られていた航路図から港の名前が消えている。日付が白くなっている。到着の線だけが残り、そしてどれも、途中で止まっていた。港の手前で止まったもの。分岐点の直前で止まったもの。ひどいものは、出発点の丸だけが濃く、そこから一歩も進んでいなかった。


部屋の奥で、吊り紐が鳴った。


壁の奥から、紙が一枚浮き上がった。他の航路図とは違う紙だ。古く、端が擦り切れている。線は途中で二つに分かれ、そこで終わっていた。


右へ伸びる線は、途中から黒い。


左へ伸びる線は、続いているのに薄い。


分岐点には、小さな重しを落としたような痕がある。紙が破れてはいない。けれど、そこだけ繊維が沈んでいる。


ダッタの記録板の端で、指さない針が細かく震えた。


アンはその音を聞いた。


聞いたのに、白紙へは近づかなかった。


「これだけ」


ダッタは奥の航路図へ歩いた。


「形が違う」


アンは机の端に置いた手を動かさなかった。指先は、ペンの軸からほんの少し離れたところで止まっている。


「古いものだから」


「誰かのために描いたものですか」


「そうとも言えるね」


「アンさんのものでもある?」


アンは答えなかった。


右の線の先の黒さは、黒札の色と同じではない。札の黒は紙の上に乗っている。これは線そのものが焦げて、先へ進むほど紙の中へ沈んでいる。


ダッタは近づきすぎないように、半歩手前で止まった。


分岐点の痕だけが、妙に重い。


誰かがそこへ小さな石を置いたようにも見える。言葉を落として、拾わないまま紙が沈んだようにも見える。


「この先に」


ダッタは記録板を押さえた。


「あの声がいたんですか」


アンの肩が少しだけ動いた。


「あの声?」


「飛ばなければ落ちないって言っていた声です。選ばなければ失わないって」


アンは奥の航路図を見た。


右の線の黒い部分を、一度だけ。


机の端に置いていた指が、そこで白くなった。


「あの人のことを、私は知っている」


それ以上は続かなかった。


名前を聞くべきか、ダッタは迷った。記録板には未確認の欄がある。あの黒い滲みの中に、まだ読めない文字が残っている。聞けば、今ここで一つの欄が埋まるかもしれない。


でも、アンの指はペンから離れたままだ。


今その名前を聞けば、アンはまた別の航路図を壁に吊るすだけかもしれない。そんな線が、ダッタの頭に浮かぶ。


「知っているなら」


それでも、言葉は出た。


「どうして」


アンがこちらを見た。


ダッタは最後まで言えなかった。


どうして止めなかったんですか。


どうして言わなかったんですか。


どうして選ばなかったんですか。


どれも同じ場所へ向かう。そこへ踏み込むには、まだ近すぎる。


アンは問いを引き取らなかった。


「知っていることと、選べることは、同じじゃないんだと思う」


「でも、知ってたら」


ダッタの声が強くなった。


「間違えないようにできるんじゃないですか」


アンは少しだけ目を細めた。


眩しいものを見るのに似ていた。ゆっくりと息を吸い込む音がした。


「そうだったら、よかったね」


その返事で、壁の航路図が一枚増えた。


音はしなかった。気づいた時には、左の壁の隙間に新しい紙が吊られている。出発点だけが描かれた白い図。線はどこにも伸びていない。


ダッタは息を止めた。


壁に、音もなく、一枚増えていた。出発点だけが描かれた白い図。線はどこにも伸びていない。


アンは壁を見ていない。


「残しておけると思うと、少し楽になるから」


机の白紙を見ないまま、言った。


言い終えて、アンは一度だけ白紙を見た。


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